わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

自分も相手も大切にするコミュニケーションの方法

最近コミュニケーションを学んでいくうちに、

感じたのは、言い方ひとつで、

相手への印象が大きく変わるなってこと。

 

 

例えば、

1、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「それはイライラするよねー。」

 

2、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「イライラしちゃうんですね。」

 

3、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「そうなんだ。でもさ、それはAさんの主観であって、人それぞれじゃない?」

 

 

って、ちょっとのニュアンスの差でも、

全然違う。

 

 

わたしがAさんの立場だったとして感じる印象は、

1は、共感している、またが同調してくれている。

2は、同調はしていない。けど、自分の気持ちを受け入れてくれている感じがする。

3は、正当な答えで、なんか突き放された感じがする。

 

 

このブログを読んでいる人は、どんな印象をお持ちでしょうか?

 

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わたしは、自分が強い人間とは思っていないので、

結構、3の対応をされてしまうと特に、「あー、この人には次回から相談しないでおこう」ってなってしまいます。

 

 

この「人それぞれだよね」って、とってもよくきく言葉なんだけど、

わたし個人は、使い方、気をつけないとなって思ってます。

 

 

 

なぜなら、

人それぞれ。なんて、大前提でわかっているんですよ。

でも、頭でわかっていても、気持ちがついていかない。

誰かに理解してほしくて、その気持ちと頭の中を整理するために話をしたくなるときがある。あと、ただ、どこにも気持ちが行きようがなくて、ただただ話たいときもある。

つまり、話を聴いてほしいだけのとき。

 

 

そんな時に、この、「人それぞれだよね」って言われると、

正直、じぶんの考えが否定されたみたいに感じるなあって。

責められているみたいな感じがして。

そんなことわかってるんだよ。でも気持ちがついていかないんだよ。

って言いたくなる。

 

 

きっと言った本人は悪気もないんだろうし、自分の意見を言っているだけなんだけど

きいている方は、自分の気持ちはどこか置き去りにされているような気持ちになるなって。

 

 

だから、わたし個人は、正当論というのは、ときに人を傷つけるし、

使い方に注意しないとなあと思います。

 

 

 

そして、同調するのも、ちょっと違うかな。

同調は、自分の意見を抑えて、相手にあわせることもある。

こうなった場合、これは、どちらかが優位になっている状態で、

コミュニケーションとして対等ではありません。

 

 

では、どうしたらいいか。

 

 

先日友人が話していたのがとってもよかったので、

わたしはこうしています。

 

 

まずは、相手の考えをただ受け止めること。

仕事とかで、本当はAという仕事をしてほしいのに、他の仕事を優先している後輩がいて、困っていたことがありました。

 

その友人曰く、

 

 

まずは、その後輩が自分の仕事を手伝ってくれていることに対して

「手伝ってくれてありがとう」と伝え、

次に、自分の状況を伝えます。

最後に、またその後輩に、「もしまだ時間があったらこっちをお願いしても大丈夫かな」など、相手の都合を思いやる言葉を伝えること。

 

 

このコミュニケーション、最初は結構うまくできなくてたいへんだったけど、

やはりコミュニケーションも訓練ですね。

少しづつできるようになりました。

 

 

自分にも相手にもストレスがない、対等なコミュニケーションには

まだまだ遠いけど、1つずつです。

 

 

最近「人それぞれ」って個性を尊重する時代なのでよく遣われるので、

ちょっと気になりブログに取り上げてみました。

 

 

余談ですが、個性といえば、

個性を尊重する=普通でいることはよくないこと

ではないとわたしは思う。

 

 

個性が強く言われるあまり、逆にそれが気になって、個性がない自分を責めてしまうのは、本末転倒だと思うから。

 

 

ちなみにわたしは超がつくほど普通だなーって。

そんな個性的でありたいって思ったときもあったけど、

そっちより、「個性的であるべき」って縛られていたほうがとっても苦しかった。

 

 

普通っていい意味で諦めたんですよね。

 

 

なんというか、諦めることって大事だなって。

 

 

 

執着して諦めない!ってゆうのは、ちょっと違って、

諦めなければならない中でも、自分だけの譲れないものがあって、

その自分だけの譲れないものだけがしっかりしていればいい。

 

 

いつも大事な部分だけがみえていれば、ズレがあったとしても

大きくはズレないのかなって最近思います。

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世の中に、じぶんの事をわかってくれる人が、

少しだけいてくれればいいなって思えるように、

徐々になっていけばいいなあと思います。

 

 

 

 

 

 

 

LGBTの人に言ってはいけない言葉。

わたしは、

カナダに住んでいたときに、

ゲイの方や、レズビアンと触れ合う機会があり、同性愛とか、性同一性障害には偏見はない方だと思います。




で、人間て、

どーんな人も、男、女、関係なく、

男性だけど、完全に120パーセント男性。

ということはなく、1パーセントでも、女性的な部分があるらしいです。



同じく、女性もある。

例えば、「ふざけんじゃねえよ」って

言葉を女性が使うと男性的な一面を感じませんか?こんな感じで。

男性脳とか女性脳の話ではありません。





で、これって、自由にいつでも

変更出来る権利がある訳ですよ。




自分が決めることで。

他人が決めることではありません。




で、時々、

性同一性障害なんだね?

じゃあ、男か女。どっちにするの?

わかった。君は男性だけど、女性になるなら、女性扱いするから、今後変えないでね」

的な事を、言う方がいるらしいです。




男性か女性か、今決めて、

今後一切変更するな。

と強要しているように、わたし個人には

聞こえます。




でも、私も、ずーっと

120パーセント女性でいるのは無理で、

たまには、胡座をかきたい。

たまには、腹が立ったら、ふざけんなー!!!って、叫びたい。

こういう男性ぽい部分、出したいし、

勝手に出てくるもんです。




人に固定されるもんでもない。

自由でいる権利がある。




だから、女性になりたかったら女性でいいし、男性になりたかったら、男性でいいのだ。




という考えが大切らしい。




なので、

いくら自分が混乱するからといって、

相手の自由を奪ったり、決めつけたり、強要を促すような発言は、言わないように

気をつけたいです。






勘違いしていた「マズローの欲求の階層説」

今日は、大学の心理学の先生の開く、

ワークショップに参加してきました。



参加のお約束で、

●人が話している最中に、自分が話をしない。

●なにを話していても、アドバイスはしない。

というものがあり、否定や評価がないので

すごい安心して深く話が

お互いに出来る場所でした( ´∀`)



ここで聞いたお話で、

勘違いしてる人がたくさんいるし、

わたし自身が何より知らなかったので、

忘れる前に書いておきます。




マズローは、ご存知でしょうか?


欲求階層説とは、心理学者のアブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向けて絶えず成長をしていく」という理論を唱えて、人間が持つ欲求を5つの階層に表したものです。

この理論では、人間誰しもが持っている欲求を5つの階層構造で解説しています。

https://jibun-compass.com/maslow

詳しくはこちら。↑



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※同じサイトから使わせていただきました。




実は、この、

「尊厳の欲求」部分は、つまり、

承認の欲求。なのだが、



実はこれは、こんな感じで、分けられる。

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承認の欲求というのは、

実は、他者から認められたい。というのと、

自分で自分を認めたい!!!という欲求の

2つに別れているのだ。



で、ピラミッドの頂点の

自己実現の欲求」は、

自己実現の欲求と、自己超越の欲求

2つに分かれる。



ちなみに、この頂点の部分は、

人類の1パーセントしかいないらしい。



多分、レオナルドダ・ヴィンチとか、アインシュタインとか。

成功者ということではないんじゃないかなぁと話を聞いていて思いました。




で、先生いわく、

実は、自己承認の欲求を満たしていることを、自己実現の欲求を満たしていると思って勘違いしている人が結構いるということ。




では、

自己実現」と「自己承認」の違いは何か??




それは、ひとことで言えば、

結果を求めるか、求めないか?

の違い。




自己実現の欲求は、

ただ学ぶこと、することが楽しい。

結果は求めない。




自己承認の欲求は、

自分に課題を課していき、結果を出すことを求めること。

(例えば、資格を取るという目標を自分に課すこと)




なので、自分で自分を認めるために、

何か「結果」を求めることは、

承認欲求に入るので、

欠乏欲求に分類されるのだ。




売り上げという結果を出したいや、

何かを成功させたい。は、

基本的欲求が満たされてる訳ではないらしい…




ピラミッドの頂点の自己超越の欲求というのは、



自分の人生のテーマに、

我を忘れて取り組んでいる状態のことで、

自分を越えた何かとつながっている人のことなのだそうだ。



この頂点の人たちは、

驚いたことに、神秘体験とか、至高体験

日常的に感じている人。

つまり、日常的に「最高」の体験をしている状態。多分、赤ちゃんて毎日が新しいものに満ちていて、うぉー!って感じじゃないですか。

あんな感覚を日常的に感じている人たちらしいです。




結果を出したい。は、

自分で自分を認めるための行動ということですね。




ちなみに、成長欲求の部分が真の意味で

実現している方は、

人類全体の1パーセントらしいです。




勉強になりましたーー!!!




セルフイメージよりも大切なこと。

セルフイメージが高いとか高くないとか以前こだわっていた自分が

すっごく恥ずかしいなと思った。

 

 

そもそもセルフイメージが高くなりたい!って思っている時点で、

セルフイメージがずっと低いです!!!

 

 

って公言してるのと一緒だし。

 

 

最近、もう結構セルフイメージ、低くて結構です。

って感じになってきた笑

 

低くても別にわたしの事をすきでいてくれる人はいるし、

その人たちを一生懸命増やす必要はない。

 

 

自然に集まってくるものだろうし、

そこに努力したい人がすればいいし、

とにかく自分には関係ないことなんだなーって最近思う。

 

 

投げやりになったみたいに見えてるんだろうなあ。

でも、そう思われても、結構どうでもいい笑

 

 

わたしの感情は私のものだし、別に誰に何と言われようが、

ふーん、あっそ。で?

って思う。

 

 

 

下山したとかしないとか、上がるとか上がらないとか、

興味ないし、

てゆうか、そもそも何を基準なんだろう。

下山の基準。誰か知ってたら教えてちょ。

 

 

 

人間落ちるときもあって当然だし、

どんなに自信がある人だって、

あきらめそうになったり、落ちることがあって当然だし。

 

 

ましてや「ずっと変わらないね」って

評価されてもほんとに余計なお世話である。

 

 

 

いい人ぶるのもしんどいし、

こうやって時々ゲスくなっていくけど、

これが本来のわたしなので、いま、超スッキリしている。

 

 

 

人のために何かすることも、

自分以外のことに今は正直時間割きたくないし、

とにかく、このネットの情報の多さから本気で離れないと、

インプット、アウトプットよりも何よりも、

 

 

誰かの考えや影響をうけることによって、

いいものを取り入れることと、影響を受けただけのことなのか

わからなくなる。

 

 

 

私個人は、

アドラーの7つの習慣よりも、あんま有名じゃないけど、

ロジャースの考えのほうが、

アドラーの強靭的な感じよりも、人間らしくて、とても好きだ。

kokoronotanken.jp

 

 

セルフイメージなんて変化する。

 

 

ありのままので「いい」「悪い」と白黒続けて、

心がそっちにとらわれ続けるあまり、

すっごくつらくなってしまうよりも、

 

 

自分はこういう考え方の癖があるし、

この考え方の癖と、ずっとこれからも付き合っていくんだ。

じぶんが感じている「劣等感」があることを認め、

付き合っていく覚悟を持つ方が何十倍も勇気がいるし、

セルフイメージうんぬんよりも、大事なことだと思う。

 

 

 

いつまでも劣等感から目を背けて自尊心を高くするのではなく、

劣等感をもって逃げているということを受け入れるだけでもかなり楽になる。

 

 

劣等感があって、逃げているからといって、

別に治す必要はないし、何か努力する必要もない。

 

 

きっと努力したくなったら何か考えるだろうし、

本気で何かを変えようと思ったときには、誰しも必ずじぶん自身で答えが出せる力を絶対に持っているから。

 

 

嫌われる勇気なんか持たなくてもね。

勝手にもつようになる。

 

 

劣等感を持っている自分を拒否し続けた結果、

劣等感を埋めるために、学び続けて、でも、ずっとずっと

足りない感をどこかで抱えながら、生きてきた。

 

 

正直、そのとき頑張っていた自分よりも、

今の自分のほうがずっと自分らしく自然。

 

 

昔のそんな自分が損したなあ・・・って思うし、

そうなってしまった事に対して、じぶんの弱さとかに情けないなとか、

正直、相手に対して怒りや、悲しみや、がっかりした。とかいう

感情もわく。

 

 

ただ、そこから学んだことは、

自分の心の底からお互いを尊重できるコミュニケーション能力を身につけたいなと思ったこと。

どこかで無意識に上下関係ができてしまった関係というのは、

上にたつ人はきっと、じぶんの意見を言いやすい環境だけど、

結局どこかで意見を曲げたり、劣等感を持ち続け、埋めるということは、

どうしても、上下関係に陥りやすいのだということがよくわかった。

 

 

遠回りはしたけど、身をもって学んだので、それでいいんだと自分を納得させるしかないし、そんだけ自分は何かにすがりたいくらい、助けてほしいってうまく言えなかったんだろう。

 

 

ただ1つ確信していえることは、ただただ本気でみんな自分の人生を生きているだけなんだろう。と。その中で違いがあっただけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

わたしは都会での消費・浪費に傾きがちな生活より、田舎で情報もあまりない場所で

伸びのび過ごしたい。それがわたしの夢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かわいそうな人

わたしには、わたしのことを1mmも「かわいそう」とか思わない友人が数人います。

 

 

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今日、テレビで「この世界の片隅に」って映画が、ドラマになるんだなあと思って

テレビを見ていました。

konosekai.jp

 

 

わたし個人はこの映画をみたときに、実は、

かわいそうとか感じなかった。んです。

全く涙も出なかった。

 

 

戦争映画でホタルの墓とかは、泣いたんですよ。

むしろわたし、感受性は豊かなほうだと思う。

 

 

 

でもね、この映画は何も感じなかった。

戦時中の日常生活を描いたものなんだけど、

「かわいそう」とか全く思わなかったんですよね。

 

 

この時代は、お国のために。っていうのが当たり前の時代で、

その為に命を落としてその中で結婚相手の顔も知らず・・・とか、

ただただわたしには戦時中の人たちの日常生活を知る映画でしかなかった。

 

 

かわいそうというよりも、こういう時代があって、

色々我慢したり抑圧された中でも、一生懸命生きている人たち。

この人たち1人1人のおかげで、

今の日本という国があって、わたしは今の時代に生まれて

「知らないこと」のありがたさみたいなものは感じた。

 

 

逆に、かわいそうなんて思ったら、その一生懸命生きてきた人たちに

失礼だと思った。

 

 

わたしの周りで、特にうまくいかないとき、

人に対して「かわいそう」って、みてくる人たちはたくさんいる。

 

 

 

わたしの場合、

30代後半で独身であることとか、

彼氏と別れた時とか、

悩んでるときとかね。

 

 

 

じぶんが何か不安を抱えているときって、悩んでいる人のところに行って、

知らず知らずに手を差し伸べようとしたり、

アドバイスしたり。

 

 

それって相手のことをどこかでかわいそう。とか、

自分より大変そうな人。苦労している人。って

思っているから、

 

こうゆうアドバイスしたいとかがあるんじゃないかな。

 

 

必要とされたいから。

何か、そこで自分が生きている証みたいなものが得られる感覚なのかな。

 

 

もしくは自分より不幸そうな人をみると安心するからかもしれない。

 

 

だから、「かわいそう」って、思ってるときって、

実はその思っている本人が一番かわいそうな人だと私は思う。

 

 

 

だって、かわいそうとか、申し訳ないとか

相手に思うことで、相手を知らず知らず下にみてるんだから。

 

 

 

だから、わたしの昨日会った友人たちは、

本当に心友で、いつでもお互いに今こういう状況なんだね。とか、

ただ、別にいつもいい時も悪いときもあるって、心からわかっていて

それを尊重してくれる友人。

 

 

話を聴いてあげよう。とか、

悩みを聴いてあげよう。とか、

アドバイスしよう。とか、そんなん一切なくて。

 

 

ちょっと聴いてほしいっていったら純粋に話を聴いてくれるし、

もちろんアドバイスも一切ない。

 

 

こんな友人に出会えることは、結構希少なのかもなあと思う。

波があるとどうしてもかわいそうとか手を差し伸べてしまいそうだから。

 

だから、わたしにとってそれが一切ないこの友人たちは

本当にいつも心から感謝しかない。

 

ほんとにアドバイスなんて本当に余計なお世話で。

 

 

わたし自身がアドバイスをする人なので、今はよくわかるけど、

本当に自分がされて嫌なことのナンバー3に入ると思う。

 

 

 

誰だって自分のことを「かわいそう」なんて思われたくなくないですか?

わたしは他人からかわいそうなんて思われたくないから。

 

 

 

でも、実はわたし含め、世の中には

自分が不安だったり、ちょっと悩んでいるときとかって

無意識に人の事をかわいそうとか、弱い人とか感じてしまうんだろうな。

 

 

 

わたしが今勉強している、心の勉強は、

学べば学ぶほど、

孤独な仕事なのだと思う。

 

 

 

それは、人の自立を一番喜ぶべき仕事で、

そして、それは最終的に自分が必要とされなくなることだから。

 

 

 

わたしは寂しがりやだし、どこかでいつも人に必要とされたいと思っている。

だから、自分1人ではどうにもならない、チームで必要とされる職業でよかったと思う。

 

 

わたしは、患者さんをかわいそうとはあんまり思わない。

ガンの人であれ、先天性の病気の人であれ、

それぞれの状況で一生懸命生きている人をみているから、

現場はいい意味で割り切れる。

 

 

患者の自立のためにも、看護師が自分の心身状態が悪いと、

どっぷり「かわいそう。大変そう。」などの状況にハマってしまう。

自分自身にも限界がある。

自分自身が心身ともに健康でありつづけることが、

一番患者の自立にとってはベストだかから。

 

 

真心を求められる現場だからこそ、熱意を持って働ける場所で、

年間に数人にしか、ありがとうって言われない職業だけど、

病院で患者さんにあわなくなることは心から嬉しい。

 

 

話がずれちゃったけど、

とにかく、かわいそうな人というのは、

「相手をかわいそう」と思っている自分だとわたしは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分らしく生きるために必要なこと。

実は最近、新しい挑戦をしています。

 

挑戦って言っても、なんかでっかいことをやり遂げるとかじゃないけれども、

ずっとずっと心理学に興味があったので、

しっかりと根拠のあることを学びたいと思い、

最近学校のようなところに行っています。

 

 

そこで、「人の話を聴く」ことを実習を通して学んでいるんですが、

いままでいかに自分が人の話を聴いてこなかったのか。

 

 

いかに自分が相手のことをわかった「つもり」だったのか

よくわかり反省しています。

 

 

 

1、人の話を聴くということ。

人の話を「聴く」というのは、

ものすごく大事であり、ものすごく難しい。

 

 

「聞く」というのは、ノイズでも耳に入ってくる雑音とか耳に入ってくるもの。

「聴く」というのは、感覚を働かせて識別すること。つまり、意図的に集中して、

心をそちら側に向けて耳に入れること。

「訊く」というのは、たずねること。

 

 

普段、わたしは、今まで話しを「聞いていた」んだと思います。

 

だって、人の話をききながら、別の事を考えていたり、

「次、何話そうかな」って考えながら話をきいていたり。

これは、「聴く」ではありません。

 

人の話を「聴く」って、多分、

自分の主観とか価値観は捨てて、相手と同じ場所にとどまることだったんだのだと。

 

 

2、話を聴いてもらうことで得られるもの。

きっと人に話を聴いてもらうことで得られるものは、

「わかってもらうこと」ではなく、

聴くことにより、相手が、

「自分自身の心に耳を傾けることを学ぶということ」

だと思う。

 

 

話を聴く人を介して、聴いてもらっている人自身が、

自分自身を理解していき、自己決定・自己解決ができること。

 

 

なのではないかなと思います。

 

 

つまり、本当の意味でのこれが自立なのだと思います。

 

 

3、話を聴いてもらうことができれば、「自分らしく」生きることになる。

わたしの学んでいる心理学は、

社会的な「個性を尊重しよう!」「自分だけの何かを見つけよう」とか、

正直じぶんらしくいること=じぶんだけの個性をみつけること

というものではありません。

 

 

以前は、「自分らしく」いないことが、そうじゃないことは、

普通でいることは、私の中で劣等感でした。

 

どこか、何か自分だけのものを見つけなければ、よくない。

と考えていました。

 

 

だから、いわゆる「自分らしくない」という状態のときも、

自分らしくいようとする」ときも、どこかで何か努力したり。

 

 

そこには、なんというか休むことは許されないような感覚。

自分らしくいることさえも、頑張ることを伴うような感覚でした。

 

 

でも、やっぱりどうしても悶々として、疲れるんですよ。

 

「変わりたくても変われない。」って感覚。

 

 

本当は自分らしくありたいけど、どこかで、自分らしくあれたら楽なんだろうけど、

自分らしく在るために、結局はそこまで努力しなければいけないような感覚。

 

 

終わりがないし、キリがない。疲れる。

 

もうそもそも、自分らしさってなんだよ。って

結局振り出しに戻る感じ。

 

そんな感覚でした。

 

 

 

でもわたしが思うに、自分らしさって、

多分もっともっと力が抜けた、気取ったり、装ったりしなくても

いい。っていう生き方が自分らしさなのかなって。

 

 

そっちにわたしはもっともっとシフトチェンジしていきたい。

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それがどうしたらできるのか。根拠を持って、学びたかったのです。

 

 

そのために、「話を聴く」ことを学んでいます。

 

 

わたし自身が、話をしっかり「聴いて」もらったことで、それで、今、

自分自身のやりたいことや興味があることに自然と集中して取り組めているからです。

 

 

もっともっと知りたい。

おもしろい。挑戦したい。

それって、とんでもない大きいことでもなんでもなく、

 

 

どちらかというと、自分だけの心の中から湧き上がってくる小さなものに、

素直に体を動かす感覚だからです。

 

 

きっとそれが、わたしが体験した、

「話を聴いてもらったことで、自分らしくいられる」という感覚だから。

 

 

 

 

4、ホンモノは選ばない。

正直な話、「お客さんを選ぶ」ということがわたしはよくわからなくて。

それって、手術をする医者が患者を選ぶのと一緒。

 

わたし個人は、

「ほんもの」の人ほど、きっと、より好みはしないと思うのです。

 

 

そこに得て不得手はあっても、その幅をできるだけ小さくしていく。

それが、プロだとわたしは考えます。

 

 

きっとそこには表面では測れない、努力というよりも、

きっと人としての厚みが必要だと思う。

 

 

プロであれば、

1つのモノに対して、

一方向から見ているのではなく、

同じ1つのもの見ているように見えて、多角的にいろんな角度から

実はその「モノ」が見えているから。

 

 

それはきっとどの世界にも通じるものがあると思う。

 

 

実際にわたしが接してきた、

すごいなって人たちって、選ばない人がほとんど。

 

 

自分の限界を知っていて、そこに対してもとても謙虚。

上には上がいることも知っていて、

より良いモノ、目の前の相手にベストが提供できるように、

できないときはさらにいい人との繋がりを持ち、責任を持ち紹介する。

 

 

下手なアドバイスもしない。訊かれたことには対応し、

求められていないアドバイスは必要最低限しかしない。

 

 

わたしもそういう人になりたいなって思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

依存症だった私が考える依存傾向の気付き方と抜け出し方

イレギュラーなトラブルとゆうのは、

予期せぬ出来事で、



わたしはとっっっても、

このような「予期せぬ出来事」が起きると

思考が停止し、

冷静さに欠け、

自分を俯瞰してみることが苦手です。




それは、

トラブルに見舞われることが少ないとゆう経験不足が理由の一つにありますが、




もう一つは、

トラブルに関して、乗り越えたにも関わらず、「なぜうまくかいったか?何がダメだったか?」を振り返らなかったことも

原因の一つでもあります。




ダイエットに成功した人が、

何がよくて何が悪かったかよくわからないけど、痩せた!ってときは、



原因がわからないので、

何かをきっかけにキープ出来なくなったり、

次にリバウンドする確率は高く、

次にダイエットするときうまくいかないケースがある。



こんな感じでしょうか。




やっと言葉として書けるのですが、以前、

胸がえぐられる経験をしました。




大切なものを予期せず失ってしまう。

という経験は、

準備もなくくるもので、

変えられない事実で。




渦中にいる間、わたしは、

現実を受け止めることが困難で、

自分のことを客観視できませんでした。




毎日、

孤独感という不安や寂しさに飲み込まれていたし、何をしても、それから逃れることができない。

泣くことすらしたくないくらい、

感情も抑えないと自分が保てない。

忘れたくても忘れられない。

何をしても足りない足りない。

自分のとてつもない無価値感。

焦燥感というか

気持ちをまぎらわすことしかできない。

そこにひどく執着してしまう自分が情けなくなり、嫌になる。




同じ経験は人生で2回ほどあったのですが、

その時もつらくて仕方なくて、

目を背けていました。



ただただ時間が解決してくれるだろうと

待っていました。




だから、以前の失敗と、

同じようなことを繰り返してしまった自分に対して、自分を責めたり、悔しかったり、

ただ悲しんだりしていました。





ただ、今回は、

「客観視できていない自分」に、

早く気づくことができたことができたので、思った以上に、回復は早かったです。




ある人がいなくなった途端、

その人がいなくては困る、

すごく不安というような焦燥感に駆られるようなおかしくなるような感覚は、

まさに「わたし、ちょっと変。これは異常だ」と、

めちゃくちゃ自分に違和感を感じました。




「なんとかしなきゃ。」と思いました。

その「なんとか」の中身は、

新しい何かで補点しなければ。

その人との関係を何とか取り戻さなければ。

今のままでは辛すぎるから。

と、様々な気持ちがぐちゃぐちゃになりました。




実は、その時、やっとそれが

依存している状態だとわかったのです。

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男性に対してだけじゃないですよ。依存って。




例えば、女性に対してでは、

すごく憧れの女性がいて、


・その人といると気分が良くなるけど、

しばらくは続くけど、そのうちに、会わないとその「気分の良さ」がなんだか保てない。

とか、

・対等にYESNOが言えない。

嫌なのに嫌と言えない。断れない。

・一緒にいて楽しいけど、帰るとドッと疲れる。

・その人からの評価が気になる。

・その人が気に入ってる人がすごく気になる。自分ももっと気に入られるように頑張る。 

・その人から何か言われたりすると、「自分が悪かったのではないか」と罪悪感で気になって仕方がない。




こんな感じでしょうか。



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私の場合、この状態を直感で、

「普通じゃない。おかしい。」と、

カウンセラーの人に

すぐ連絡し、カウンセリングを受けました。




つらいときに、いままで、

もう少し様子みようとスルーしたり、

人を頼ることが苦手だったわたしが、

自分の違和感に気づいて、

専門家に頼れたこと。




たくさんの人に素直に

「つらいから助けて欲しい」と、

言えるようになっていたこと。




自分の「異常かもよ」なサインに

気付いて、それを無視しなかったこと。





やっと

「いい加減、もうそれどうにかしようよ。」と自分で思えて、

カウンセリングを継続で受ける決意をし、

依存への対応を気づけたこと。




これらの決断は、最終的には

自分との信頼と、

自分が譲れない基準を

見つけることにつながりました。




そして、最初の辛い場面で、

思った以上にたくさんの人が

思いがけず、何時間も長電話してくれたり、

急に時間が空いたから。と時間を一緒に過ごしてくれたり。

自分の経験を話してくれたり。

客観的に話をしてくださったり。

一緒に考えてくださったり。




ほんとに自分が思っている以上に、

たくさんの人たちが、

わたしがつらくて、

孤独感に耐えられなくなったときに

自分たちの時間を使って

支えてださいました。





職場の仲間も、気がまぎれるから。と

仕事をたくさん与えてくれたり、

その中で負担にならないサポートをしてくれたり。




ほんとにほんとに嬉しかったです。




普段から、

わたしは心から人を信頼しようとしても、することが難しかったのですが、





その時の経験を通して、

そんな中でも、

少しずつ周りと距離を縮めるために、

自己開示や、

素直に話をきいて、怖がりながらも自分の意見を話してきたこと。




毎日毎日、

コツコツ自分や人に対して不器用だけど

積み重ねてきた関係が




この経験を、通して

やっぱり相手と上っ面の関係を

築いてこなくて良かったなと。




助けていただいた周りに感謝の気持ちでいっぱいで。

また人を大切にしたいなーって思いました^ ^




わたしに貴重な体験を与えてくださった方、

支えてくださった方に、

たくさんたくさん感謝と御礼の気持ちでいっぱいです^ ^


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そして、依存というのはすごく不思議で、

嬉しい楽しいのに、苦しいんですよね。




今、それがなぜかよくわかります。





『“相手が言うことに従っていれば”楽しい』と、どこか思い込んでいたから。




そして、なぜそう思ったか。

それは、




最初に、相手がわたしを受け入れてくれ、欲しい言葉をくれたから。




依存かもと思う人は、よく考えてみてください。




もし、仮に、

「相手が”自分を受け入れてくれなかった”としたら、好きになっていたか?」と

自分に問いかけてみてください。





もし、NOであれば、

あなたは

「自分を必要としてくれた『から』、相手を好きになったのではないか、

相手の言うことを我慢して受け入れたのではないか?」

を考えてみてくださいね。




我慢する関係って、それは、あなたが望んで欲しい関係なのでしょうか?

それは一生続けても苦痛じゃない関係でしょうか?

よく考えてみてくださいね^ ^

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抜け出すには、

スッパリ連絡を切るか。

依存とわかった上で、さらにどっぷり依存し続けか。


のどちらか。



ハッキリ言って、どちらを選んでも辛いです。



でも、自分でどちらか選んでも、つらくてつらくて嫌になる時が必ず来ます。必ず。うまくいかなくなるから。

それが自分の1人で立つ準備期間でもありますから^ ^





ちなみにわたしは、どっぷり依存しました笑笑



離脱症状は本当にきつかったけど、そのつらさを経験に二度と同じ繰り返しはしない。

と決意できました。

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もしだれかの参考になれば嬉しいです^ ^