わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

この人なら理解してくれそう。と思える人に。

自分自身が、悲しいときとか、つらいときに

ふと「話を聴いてもらいたい」と

思える人が何人思い浮かぶだろうか。

 

 

わたしは2人くらい。

 

 

わたしの話をいつも全肯定してくれて夜中にいつも電話がつながるAちゃん。

いつも自分の経験や主観を排除して、わたしの立場になってくれるBちゃん。

 

 

いつも3人で月1くらいで食事をする。

食事中はジャニーズの話とかそんなんだけどね笑

 

 

2人に共通しているのは、

いつもポジティブとかそういうのではなく、

 

 

人の話を自分の主観を通してみないこと。

 

だと思う。

 

 

人の話を聞きながら、

「わたしは○○に感じているが、あなたはそうなんだね」と

フラットに人の話が聴ける友人たちである。

 

 

 

わたしはどうしても自分の主観を通して物事をみてしまうので、

彼女たちのようになりたいなーと思っているけど、

いい意味で、自分を捨てないとできないことなので、

彼女たちの人間性はいつもすばらしいなと思う。

 

 

自分を知ってほしいという欲もなく、

ただ話を聴ける友人はわたしにとっては本当にありがたい存在である。

 

 

 

じぶんもそうなっていきたいなと思う。

 

 

 

わたしは、人に頼る。ということの本質が、あまりよくわからないのだけれど、

大事な話をしたい。と頼りたくなる友人というのは、

ちょっと頼ることを教えてくれる存在でもある。

 

 

どうしても、人のことはよくわかるような気がしてしまうので、

「なんであの人はできないんだろう」

「わたしはこうしてきたのに」

「いい加減現実みようよ」

 

 

なんて言われると、思われると、

ああもう「この人には大事な話はしないでおこう」と思う。

 

 

実際友人から言われたことがあるのが、

「今までのりなさんはずっと、自分が頑張ってきたことや頑張っていることに対して

相手が頑張っていないと、「なんで○○しないの?」と言っていたけど、

もしそのままなら、わたしは友達はもう続けられないなと思った。」

 

 

 

と話されたことがある。

 

 

これはすっごくよくわかる。

 

 

頑張っているのは、「誰だって」頑張っているんだよね。

そして、「誰だって」自分を否定なんてしたくない。悩みたくない。

って思っているんじゃないかな。とわたしは思っている。

 

 

 

そこに、「できている」「自分を否定している」「自己否定はよくない」「頑張っていないのはよくない」など、

ジャッジを下しているのは、まぎれもない話相手であった自分自身だったのだとおもう。

 

 

今でもそんな部分はある。

でも、苦しんでいようとそうでなかろうと、

現実逃避していようとそうでなかろうと、

ジャッジしている限りは、

相手を理解することは到底遠い話なのだなとわたしは感じている。

 

 

だからこそ、自分が他人に対して無意識につけているクセに気づいて

意識していくことが大事なんだなって。

 

 

わたしは、

「この人ならなんでも知ってそう。教えてくれそう。」って人ではなく、

「この人なら安心して話せそう」と思われる人になっていきたいなあ。

 

 

 

今感じている自分のつらさとか弱さとは嫌だなって感じている部分は、

自分の経験としてとても大切だけど、誰1人感じ方は違うということ。

 

 

そして、誰かに「わかってほしい」と思うから、

傷ついたりするんだろうけど、

もうそろそろ、誰も自分の気持ちをわかってくれる人なんて1人もいない。と

諦めないとね。

 

 

諦めるってすごく大事だ。

 

真面目過ぎるわたしはとても諦めることは苦手だけど

少しずつあきらめていきたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神様と直感と現実と。

 

先日、季節を『感じること』について書いたけど、ここに直感についても

触れていたと思う。

rinachan.hatenadiary.jp

 

先日同僚と話をしていて、

『直感』と『霊感』って違うよね。と話していた。

 

 

 

以前のわたしは、結構占いに行っていた。

占いが好き。とかじゃなくて、なんか困ったら占いに行く。という感じだ。

 

 

神様がいない。なんて思ってもいないけれども、

困ったときに、神社に行って、

『神様、すごくつらいです。助けてください。どうしたらいいですか』

と言っても、返事はいつまでも返ってこない。

 

 

神様はいると思う。ただ、何が言いたいかというと、

神様は答えをくれない。ということだ。

 

 

 

ここで思うのは、いい意味で、

神様は答えをくれないのだと、諦めることを学んだ。

つまり、自分しか答えは出せないということだ。

 

 

 

でもそんな思いは忘れてしまうわたしは、困ったときはとにかく

この胸のモヤモヤや不安を取り除きたくて、

『誰か』に答えを求めていた。

 

 

これが、すごい。と思う人でも、

宗教の教祖であろうと、

スピリチュアルの神様であろうと、

正直わたしにとっては同じである。

 

目の前の何かにすがりたかったのだ。

 

わたしにとっては、自分の不安を解消してくれる安全・安心な場所に

変わりはなかった。

ただ、何かにすがれればそれでよかった。

 

 

 

誰かの発する言葉に、『すごい!あの人のいうことはいつも素晴らしい!正しい!

あの人といれば「上がれる」』

と、思っていた。

そして相手はいつも「わたしはあなたの味方だよ」というサインを送る。

ただただ親身に話を聞いて、話を全肯定する。

その後、「誰にも話せないことを聞いてくれ、否定なく受け入れてくれた」と

思い、自分のことを理解してくれる人はこの人だ!

なんて思う。

そのうちにアドバイスを聞いているうちに、何か自分にとって良くないコトに会った時

「あ、その人の言ったとおりだ。」ということが重なり、

「すごい!」と、まあ、あたかもその人が言ったとおりになったと思い込もうとする。

そのうち疑うことに罪悪感を覚えているにも関わらず、

なぜか人を信頼しないこと=悪いこと。みたいな構図な頭になっている。

 

 

正しい、正しくないとか、そんな出来事を引き寄せたとかじゃなく、

自分自身がそれを正しいと思い込んでいる。その通りになったと思い込んでいるだけ。

 

 

 

まあ、そのうち、どっぷりハマってお金を遣い続けたけど、

高い教科書代です。

過去は変えられないからね。

 

 

よく考えてみれば、

神様が答えをくれないんだから、他の何も答えをくれないでしょ笑

 

なのに、人間様が神様より偉い存在なの?

 

 

不思議なもんで、誰かを神様の代わりか預言者みたいにしてたんでしょうね。

はっきり言って、これ、依存以外の何者でもないですよ。

と、当時のわたしに言ってあげたい。

 

 

 

1つのエッセンスとして、誰かの言葉を取り入れて人生を豊かにしていくのが

自立した人間というものだと思う。

でも、その信じている「なにか」が正しいとか、そんなふうにちょっとでも

感じているのなら、ちょっとそれ怪しいですよ。

というのが今のわたしの感覚である。

 

 

わたしは直感は大事にする。

これがほしいとか、ここに旅行に行きたいとか、そういうのじゃなくて。

 

 

『ここが気持ちいいなあ』と感じる場所や、

『なんとなくここは危険な気がする』とか、

『なんか違和感があるんだよな』とか、

そういうものをわたしは直感だと思っていて、

それは人として備わっているものだと思うし、その自分だけの

感覚を大切にするためにも、東京は離れたいと思っている。

 

 

 

そういう、こう動物としての直感以外の、

なんだろう。

例えば占いでは、『あなたは家族か友人のことで悩んでいませんか』とか、

そういう誰にでも、なるほど!と、当てはまるようなこと。とか、

誰でも言える安っぽい発言はちょっとなあ。とわたしは信じていない。

 

 

 

 

 

『自分だけは違う。』とか、

自分は依存しているなんて思わない。とか

一種の『自分だけは違う』という特別感っていうのを持っていたら

ちょっと注意が必要だとわたしは思う。

 

 

 

それ、詐欺とかの被害者と同じだよ。

ホストとか、いったことないからわからないけど、

わたしは行かない。

わたしは弱い人間だから。

 

 

ホストに行った友人がいて、最初は5000円スタートだったけど

そのうち、その人がお迎えに来てくれたり、優しくしてくれて、

通うようになって、ボトル入れて、『大丈夫大丈夫。わたしはホストには

はまらないから』と言ってた彼女が2週間ですでに5万以上費やしていた。

 

 

元ホストに話を聞いたら、ホストは客のためなら、

どこへだって行くし、体の関係ももつ。そんなん当たり前だよ。

って言われて、ちょっと恐怖を覚えた。

 

 

それがすべてじゃないけど、

好奇心で手を出したら、気がついたらとんでもないことになる前に

ただわたしは、そこには行かないだけ。

何度も言うけど、わたしは弱いから。

ただでさえ砂糖中毒で誘惑に勝てない私が、さらなる中毒を

求める必要はない。

 

 

 

1度騙された人は2度騙されるっていうけど、

本当にその通りだと思う。

 

 

わたしは人を信頼しないことは良くないとは思わない。

疑うこと≒悪いこと。ではないと思うからだ。

 

 

人に理解してもらいたいと期待するから、

裏切られたと感じたり、人を信頼できない自分をせめてしまう。

けれども、そもそも自分以外の人間に自分のことを理解されるなんてこと

多分ムリだと思う。

寄り添ってもらうことは可能だけど、完全一致は無理。

 

大切なことは、

この人に裏切られようがそうでなかろうが

わたしはこの人を信じる。

もし、何かあったら自分自身が見る目がなかったのだ。

 

 

と覚悟決めて、信頼したい人だけ信頼すればいい。

 

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正常な人間は、先に書いた、直感というものが働くが、

 

 

正常じゃない状態では、直感は働かなかったり、

違和感を感じても、どこか何かの(不安とか誰かからの支配とかの)恐怖に

支配されているためか

違和感をなかったことにしたり、現実逃避して、今の状態を正当化しようとする。

 

 

ただ、思うのは、

今カウンセリングの勉強にいっても占い師さんとかいたり、カウンセリングの世界でも

スピリチュアルな世界が含まれているものもある。

 

 

じゃあなにが違うかって、

「今ここの現実をみているかみていないか。

自分は自分の中に答えを求めているかどうか」だと、わたしは思う。

 

 

 

現実直視しろというのではなく、直視できない自分を認めているか否か。

ってこと。

 

 

 

わたしは弱い。共依存の恋愛をしていた。

けれど、自分が2度と同じ繰り返しはしないと思ってはいない。

 

 

その時の自分がつらかったし、2度と同じことは嫌だからこそ、

もう1度起きないように、注意しながら前に進んでいる。

 

 

人を好きになったときに、まずは自分はこういうことがあった。と認識して

自分の好きになる人の傾向を知ること。

まずは今までの考え方を疑っている。

 

 

同じ繰り返しをしないために、傾向と対策を講じるのだ。

これが学習することだと思う。

 

 

でもね、ほんとに現実みたくないときは、

『なんでかわからないけど、同じことを

繰り返してしまう。

でも原因がわからない。』

こんなことが思い浮かぶ。



ただ、私は、そんなとき、

今まで自己啓発や占い行ってたけど、

自分でもダメなら、もう、専門家に頼ろうと

決めた。



原因不明の熱が何回も出たら、

病院行くのに、

なぜ心のことだけは、本や占いや自己啓発

走るのだろうか。



心のことだって、大切な自分の体。

だから私は「なんとなく」知ってる人や、

専門家でないのに、安易に取り扱うことは

とてもとても危険だと思う。



どう選ぶかは自分次第だが、

まぁ自分のお金だし、私は現実みることを

選ぶだけ。




ただ、人生は学習の繰り返しだし、失敗があってこそ。

人により程度は違うけど。

 

 


言いたいのは、神様でもスピリチュアルでも、答えはくれないよ。

 



その答えをくれる人は、

「その人」の「頭に思い浮かんだこと」

をあなたに伝えているだけ。



 

頭でわかっていても、やってるつもりでも、

できないときは、

そんなふうに誰かに答えを求める自分がいることを

ただただ感じてみてほしいなと思う。

そこにいい、悪いは関係なく^^

 

 

わたしもとてつもなく寂しかったり、孤独感を感じる夜があったけれど、

寂しかったら友人に連絡したり現実に目を向けることで、

自分には助けてくれる友人がいて、1人ではないと実感する。

 

 

 自分は弱い。

弱いから何かにすがりつきたくなるときがある。

そんな弱さを受け入れれなくても、

自分の弱さに気付くだけで、

今、弱さを持っていることがわかるだけで、

見えていなかったものに、ふと気付くことがあるなぁと思っただけ。




特にそういう目に見えないものを

取り扱っている人は、

そのくらい人の繊細な部分を

取り扱うとともに、

そこには自分が思った以上に責任が伴うということ。



「スピリチュアル」という言葉に

逃げているだけなのかどうか、

見極めるのは自分だけ。



何がどう違うのかがわからないなら、

もしかして依存してるだけかも?ね。




長くなったし眠くなったのでここで終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋だね。

先日、実家に帰ったとき、

家で旬のサンマを食べながら、外でコオロギが鳴いていた。



家の前の畑に、ススキ🌾があって、

穂をカラスが食べている。




「あぁ、秋だなぁ」って感じた。



ドライブをして、

ふと温泉に入りたくなり、

なんとなく見つけて、

なんとなく行きたい温泉に行ったら、

すごいステキな温泉だった。

滝が見える温泉。一日1組限定貸切宿らしい。

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そのあとには、星を観て、山頂に行って、

ダウンコートいるな。とかさ。




この、「季節を感じる」「なんとなく気になるから立ち寄る」ってものすごい大事だなぁと最近感じる。




東京に来てから感じるのが、

アスファルトに囲まれて、

季節を感じたりすることが少ない。



何気なく人に紛れて出勤して、

毎日通勤する風景に変わり映えもなく、

ただただ時間を過ごしているような気がする。





目の前の出来事になんとなく過ごしていたり、周りの煌びやかさに何となく惹かれていたときは、こんな季節を感じることが少なかった気がする。




季節を感じると自分の気持ちに敏感になる。

いいことも悪いことも、全部含めて。




今の自分を受け入れられなかったり、

想いを伝えたいと感じたり、

想いを聴きたいと感じたり、

だれかに理解されたいとどこか期待したり、

届かない気持ちもあると諦めたり、

つらい、苦しいと泣いたり、

過去を悔やんだり、

どこかホッとしたり、

自由を感じたり。




たくさんたくさんたくさんたくさん

自分が感じることがあった。




色々な意味で、来年は東京を離れようと

思っている。




やはり自然の中でシンプルに生きることが

わたしにとっては必要だなと感じているから。




自己啓発にどっぷり浸っていたときは、

感じることの大切さをお金を出して聴いたりしていた。



でも、多分、そんなんお金出さなくても

みんな感じれると今では思う。




仕事をしていても、同僚と深い話をする時間はわたしにとってはとても代え難い大切な時間だと感じるし、




わたしの仕事は感性が豊かである方が

仕事にも深みが出る。




だからこそ普段から気持ちに敏感でいることは、仕事の質もあげるのだと。




わたしにとって、東京は楽しいが

物が溢れすぎて、選択することにかなり労力を要する。



だからこそ、強いメンタルを持つ人が

東京という場所では成功する気もする。




ただ、わたしの場合は、メンタル弱いし

競争社会より、やっぱ自然の中にぽつんと自分が動物の一種だと感じて生きていきたいなぁ。


イライラは良くないことじゃない。

昨日、ある人が、

「わたしはイライラしない。

そういう思考はシャットアウトしている」


と、話していた。




でも、明らかに…イライラしている笑笑




多分、彼女の中では、

イライラ=良くないこと

という価値観があるのだと思う。





もちろん、イライラしない方が楽だと

思うけど、

イライラすることを悪者だと思っている

と、逆にそれを我慢して良くない。





イライラしてたら、イライラしてるなーって

まずは感じることがすごく大事。





わたしは正直よく怒る笑笑




それは、わたしの中で、どこかいつも

「誰かに何か嫌なことをされた」と感じる

ことから始まる。



つまり、自分は我慢してるのにずるい。

ってことだろう。



それは、世の中の常識を、自分の考えにしてしまってる…というより、

単に、自分が我慢してるから。




じゃあなんで我慢してしまうのか?




わたしの場合、

「その自分が嫌だな」と感じた時に

それをどう伝えたらいいのかわからないだけなのだ。




わからない結果、

自分の気持ちを押さえて丸くおさめようとしたり、気遣いしたり。




自分の気持ちをなかったことにしようと

努力してる部分があるんだろう。



それで、ずーっと何ヶ月もやってるのは、

とにかく素直に伝えてみること。





伝えようとしても、

考えすぎてその場で言えなくて、

ラインで伝えたら失敗したとか笑笑




とにかく毎日失敗だらけ笑笑




でも、この小さな失敗の中にも、

ちゃんと成功するときがある。




つまり、

世の中には、

我慢せずに自分の感情を吐き出したとき、

それを「受け入れてくれる人」もいれば、

「受け入れてくれない人」もいる。

ということ。




単純に、自分にも、受け入れれることと

受け入れられないこと。があるのと同じ。




ただそれだけ。




あとは、あの人は、ああしてるけど、

わたしは、したくないなぁ。

と、自分主体で考えられるとイライラは

なくなるんだろうけど。




とにかく、自分が素直であれば、

イライラは少なくなるんだろう。




そして、

大坂なおみ選手や、セリーナ選手みたいに、

彼女たちが魅力的に見えたのは、



怒ったり、泣いたり、好きって言ったり、

子どものような純粋さが垣間見えるからだ。


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そのくらい、

人の感情というのは、とてつもなく人の心を震わせるものだということ。





でーもー、難しいよーー


できないよーーー



ああなれたらいいけど、できないから

苦しいし、悔しいなぁ。



共感≠相手の気持ちを敏感に感じ取ること

カウンセリングを学んでいて、ちょっとできていると軽視していたのは、

『共感』に関する理解である。

 

 

共感というのは、同感すること、相手の気持ちを敏感に感じ取ることとは

異なる。ということだ。

 

 

ずっと『共感』の意味を勘違いしていたので、ここに書いておこうと思う。

 

 

 

わたしは、人に無視されたとき、とってもいやな気持ちになった経験がある。

例えば、Aさんも『無視されて嫌な気持ちになった』ことがあるとしよう。

そしてBさんも同じ経験があるとしよう。

 

 

で、今までわたしは、

AさんやBさんから、「無視されて嫌な気持ちになった」と話を聞いたとしたら、

「あーわかるわかる。それ私も経験あるからわかる。つらいよね。」

っていうような返しとか、

返答しなくても、心の中で、「つらいんだろうな」って『思って』いた。

あとは、『あーきっとあの子の場合は○○なことがあったから、こんな気持ちなんだろう』とかって思っていた。

 

 

けれども、実際は、

同じ経験をしても、その『嫌な気持ち』っていうのは、

AさんもBさんも、わたしも誰1人として同じ気持ちではない。ということ。

 

 

共感っていうのは、その1人1人の「ニュアンス」とか「感じ」とか「エッセンス」みたいなものを感じ取って、同じ位置でそこにたっていることなんだと思う。

 

 

 

今までわたしがやってきたものは、共感ではなく、

どちらかというと、同調とか共鳴っていう言葉のほうがしっくりくる。

 

 

 

こっちの共鳴とは、

「わたしは同じ経験をしたことがあるから、きっとあなたも同じような気持ちなんでしょう」という自分の判断の上に成り立っているものであるということ。

それは知らない間に「自分の下した判断」を相手に押し付けていることにつながる。

 

 

で、それを感じ取った相手は「わかってくれない」「押し付けてくる」と感じてしまう。

 

 

 

このジャッジみたいな自分の考えに無意識でいると、

自分の価値観でモノをみていることに気づかないから、

「自分の感じていることがあたかも真実だ」と思ってしまうんじゃないかなあ。と。


 

 

特にわたしは自分が繊細な方だと思うけど、

自分が繊細だからこそ、「わたしは繊細だからわかるよ」って思っている思い込みに

気づき、

どこか『わかっているよ』っていう気持ちも手放す必要がある。

 

 

 

だって『相手の現実』の中に、わたしはいないわけだし、全く関係ないのだから。

 

 

 

自分の価値観でみている部分があるなーと思ったらまずは脇におくこと。

 

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わたしの信頼する友人が話していたが、彼女はコーチングをしている。

いつも言っているなかで、

『わたしには共感力がないが、それでいいと思っている』と話していたが、

今思えば、彼女は共感力は抜群にあって、共鳴力がないのだ。

 

 

つまり、自分の価値観というものは、脇においているので、

彼女と話すときは、いつもコーチングにも関わらず、どこか誘導されない、

自分で前に進んでいるようなコーチングができるのだと思う。

 

 

共感ではなく、共鳴するから、

『一緒にいると相手の気持ちが伝わってきてつらい』となって、一緒にいることが

つらくなってしまったり、めんどくさくなってしまうのだろう。

 

 

 

いつも主役は自分ではなく、目の前にいる『本人自身』であることを

意識していれば、相手に対してもジャッジすることをやめられるのかもしれない。

 

 

いい意味で自分を捨てること。



相手と同じ位置にたって『とどまること。』



これが、本当の『共感』なんだなあと

学んだ。

 

 

 

そして同じ位置に立ち止まることってすっっごく難しい。

共鳴していたら、そこにはきっと留まれないから。

 



「相手と私は別」と割り切ってしまうと、そこには薄い壁ができてしまうため、

それは、『共感している』でなく、

共鳴しているから、割り切らないと相手との距離が保てないのだろう。




だからこそ、もっともっと自分自身と本気で向き合う必要がある。

 

 

とってもとっても難しいんだけど。

 

 

今日はとってもいい学びになった。

 

 

 

 

 

 

『自分が嫌い』って言った途端、楽になった。

先日、自分のことが嫌いって書いたけど、

それを公言したらとっても楽になった。

 

 

こんなこと、仲がいい人に言えばいいのかもしれないけど、

わたしは完璧主義で、ずっとずっと『いい人』だった。

それがやめれなかったし、うまくいかないと落ち込むし。

どこかいつも、自分でも気づかない間に、

自分の中に、『これはこう。』と枠を作ってしまってしんどかったけど、

実際は、自分の中に枠を作っていないと、

そこからはみ出ることの方が不安だったのだと思う。

 

 

 

いつもどこかで『幸せでいること=愛情もお金も体型も整っていてすべてがある状態』って思っていた。

でも、それが、どこかでそれが『幸せの条件』って思い込んでいる部分があったから、反発したり苦しかったのだと思う。

 

 

でも多分それは違って、そのために、

頑張ること=結果を出す=結果を出すために焦る。

となると、結局、結果に焦点があたってしまって、

今していることがつらくなってしまったり。

 

 

目の前の『食事をする』ということがストレスが大きすぎて、

楽しむものではなく、ストレスを解消するもの。になってきてしまったのだと思う。

 

 

けれどわたしは医療の世界にいていつも感じるのは、

自分の体っていうのは、誰1人例外なく、自分の体を守っているんですよね。

心がどうなろうとも、心臓は動こうとしてくれるし、

体の防御反応だって本当にじぶんの事を守ってくれている。

体は、『生きよう、生きよう』ってすごく健気に頑張っていてくれる。

 

 

 

だから、わたしの過食も、

体が素直になにかわたしを守ろうと頑張っていてくれているんだと思ったんです。

多分、本当にストレスだったんだろうな。

完璧主義が。

 

 

何かを『解消』したって、根本から『解決』しないと意味がないって思っていたし

うまくできないのは、現実から逃げているだけ。目をそらしているだけ。

できなければ、自分に甘いだけだ。

って、そう思っていた。

ほんとうに自分に厳しい。

 

 

そうやって、結局解決なんて、すっごく時間がかかるものだし、

問題にずっとずっと目を向けていれば苦しくなるに決まっている。

そんな頑張り続けていたら、心が苦しくなってもおかしくない。

 

 

いつも、知らない間に、今幸せか?

○、☓。で評価して、○だったらいいけど、☓ならば何か改善が必要だ・・・

って、それはきついきつい。

 

 

☓の自分を認めるとか認めないとか、○や☓をつけない。とかよりも、

そもそも、☓の自分だけでわたしは構成されているのではないってことで。

 

 

実際わたしはじぶんの体が好きじゃない。

でも、その体をすきじゃないって言える自分のことは好きだし、

見た目だけで私は構成されてなくて、あくまで見た目は、

わたしという要素の一部分だけなだけで。

これがすべてじゃない。

 

 

むしろ美味しそうに食事をするときの自分は好きだし、

それをみて目の前にいる人や、一緒に食事をしてくれる人が笑っているのを

みるのはとっても好き。

食べすぎちゃった!って言って、

好きな人と一緒に食事をする時間はわたしにとっては本当に幸せな時間なんです。

 

 

多分、そういうことなんだろうって思う。

 

 

嫌いな自分は好きにならなくてもいいし、目をそむけてもいいんじゃないかと

思う。好きにならない自分を無理やり好きになる必要もないし、

消す必要もないし、嫌いなら嫌い!で本当にそれでいいと思う。

嫌いだからって言って、わたしのコトを好きだった人が

離れていくこともあるかもしれないけれども、

それはそれで、悲しいよね。うん、寂しいしかなしい。

 

 

だけど、嫌いな自分を頑張って変えようとしていてもしていなくても、

きっと本当にわたしのことを好きな人は、どっちでも好きでいてくれるだろうし、

嫌いな自分を変えるのって、

きっと『誰か』からみての自分がいやなんだと思う。

 

 

わたしの体型の場合は、日本で太っている女の子って少ないし、

太っていることは恥ずかしいって思っているから。

だらしなく見えるし、そう評価されるから。

みんなと一緒がいい。って思ってた。

スタイルいい人って思われたいとか。

 

 

でもその、誰のためだかわからないような努力を続けていても、

多分、その『誰か』はそんなこと気にせず、自分の人生を楽しんでいるんだよね。

 

 

そう思ったら、自分は自分の大切って思えるひとと

楽しく過ごすだけでいいんじゃないかって。

 

 

 

だから、わたしは、嫌いな自分は嫌いなままでいい。

こうやって言える自分のほうが好きだから(^^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の体なんて大嫌い。

今日は長文なんでヒマな人だけみてください。


わたしは自分の体が嫌い。



大きい胸、太い足や二の腕、

ポコっと出たお腹。

鏡の前に立つのも嫌。



「自分なんて」って言うと良くないとか、

「そんなことないよ」って言われても、


嫌いなもんは嫌い。




だし、誰かの主観で、

そんな風に、「いい」「良くない」と

判断されることが結構苦痛。



今までネガティブな思い込みを書き換えるワークをしてみたりしたけど、



正直、すればするほど、

自分のネガティブな気持ちをなかったことにしているみたいだし、

それ自体が、自分自身を否定している気持ちになる。




男性も苦手で、昔からナンパされても

嫌悪感すら出てきて、

とにかく男性が嫌い。



男性が嫌いな理由も、

人にはわからないほどの、自分の体のコンプレックスからくるもの。



なんできれいになりたいか。って

ダイエットなんて何回もしてきた。

ただ、そのうちに、1度も

「自分のために」するダイエットなんて

なかった。



きれいになりたい理由は、

男性にモテたいため。とか、

きれいになって、だれかから綺麗と言われたいから。とか。




ましてや、周りも「女性は美しくあるべき」って考え方の女性も多くて自分もそうでいなきゃ恥ずかしいって思ってた。




つまり、『自分のために』綺麗になりたいなんて考えたことがないかもしれない。




綺麗になるには、努力が必要。



月数回エステ行ったり、筋トレしたり、

運動したり、食事制限。


でもさ、

どんな人でも、人間の個体差、時間差はあれど、それを続けていれば、痩せるに決まっている。




でも、わたしの欲しい自分の姿は、

『痩せているから』

『綺麗にしているから』っていう自分じゃ

なくて、



『太っていても、痩せていても、

自分の事が好きって言える自分』に

なりたい。




何か食事とか我慢したり、

運動したりして痩せる事はできたけど、

リバウンドするのは、

『本人が甘いから』って言われるけど、

でも、そんなことじゃなくて、

むしろ頑張っても頑張っても、終わりのないランニングみたいなんだよ、わたしにとってのダイエットって。




わたし自身の場合、

周りの人に自分の体が痩せているか、太ってるか、綺麗か?の、評価に晒されて、

気にしているから。




レコーディングダイエットも、

悪い部分を見つめること。で、

修正する。




だけど、悪い部分ばかりに目が行き、

自己否定ばかりして、

頑張ってもうまく行かない。



こんな苦痛で辛いことなんてないわ。



悪い部分をみつめ、修正して、

頑張ってもうまくいかない。

だれかに評価される。

学生が終わって、大人になっても誰かに評価されるなんて。

ほんとに終わりのないマラソンみたい。




今までは、

男性不信も、過去のことから学ぼう。

とか言われたけどさ。




無理矢理自分の気持ちを

押し込めて、書き換えて、学んでも、

それ自体が自己否定。




わたしのカラダのコンプレックスは、

男性からの評価や、男性のイタズラから、

きたもの。




でもね、今まで付き合ってきた彼氏の中には

わたしが太っても痩せてても、

わたしはわたしだから体型なんて関係ない。



って言ってくれる彼氏が数人いて、

そこにほんとに救われた。




自分の体は大嫌いだけど、

そんな風に、

大嫌いって思うのは良くないって思えば思うほど、自己否定になるので、

ダイエットはもうしません。




カロリーや食べるものとか気にして

大切な友達との食事を心から楽しめない

自分でいる方がますます嫌いになってしまう。





今までは、できない現実をみて、

修正、改善してきてうまく行ったけど、

人生は仕事じゃないんだし、

むしろ、今までうまくいっていたやり方自体を捨ててみようと思う。





あとは、自分の体が嫌いって

思っている自分をもっと受け入れたい。




嫌いなもんは嫌いなんだよね。

でもその嫌いな部分だけが『わたし自身』

ではないから。




まだまだ自分を受け入れるって

すごくすごくわたしにとっては難しいけど、

難しいって言える自分は、

ちょっと好きかも笑