わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

ダイエットって、キレイになるためにするもの?

今日はお友達と焼き肉に言ってきましたよー。

 

帰りに、「石焼き芋ーおいもっ」のおじさんがいたので、

焼き芋小さいのを買おうとしたらめっちゃ小さすぎて、

中に変えたら、おじさんが、「大きいのにしとくねー」

 

 

って。

わたし:(500円玉渡して)「あ、お釣りいいいですよ」って言ったら

おじさん「だめだめ!はい、100円おつりね」って100円くれて。

 

 

なんだかそのやりとりがとっても、心がホカホカして

なんかとっても幸せ気分でおうちに帰りました(*^^*)

 

 

 

ところで、わたし、去年のこの時期から10kgくらい増量しました笑

ストレスによる過食なんですけどね。

 

 

拒食症とかそういう摂食障害の勉強をちょうど今していて、

自分にも当てはまる部分あるなって思って勉強してます。

 

 

そもそも、ダイエットっていうのは、

肥満の人が標準体重になったり、

やせすぎの人が標準体重にもどしたりするもの。

 

 

なんですよね。

 

世の中には、トクホのお茶や、様々なダイエット商品があふれていますが、

「キレイな方がいい」とか痩せているほうが「自己管理ができている」って

いうのは、世の中のビジネスに踊らされているってことに

今まで全く気づきませんでした。

 

 

 

わたしは、個人的に、

ダイエットと過食を繰り返しています。

 

 

ファスティングもしたし、食事制限もしたし、

ピラティスをしてみたり。

 

 

でも、正直根本的な解決にはならなかったなーって。

 

 

ダイエットって、ずーっと前から世の中に出ているのに、

なんでなくならないんですかね。

ダイエットも、お薬みたいに効果があるものを飲んでそれで終わりになればいいのに。

 

 

でも、なくならないのは、やっぱ「ビジネス」として大きな市場だからです。

みんなが痩せてしまうと、いらなくなるから、痩せてもらっては困る。

 

 

なので、ダイエットする前に、世の中の傾向に自分が翻弄されていないか

自分で選びたいなーってわたしは思います。

 

 

女性にダイエットが多かったり摂食障害が多いことも、

「女性は痩せているほうが美しい」という社会価値に基づいていて。

引き締まっている体がいいけど、それ、なんで、女性に対するニーズが

圧倒的に多いんでしょうかね?

って疑問に思いませんか?

 

多分、女性のほうが明らかに、外見を重視する割合が高い上に、

男性よりも外見で評価されているから。

 

 

例えば、仕事ができない男女がいても、

女性の場合なら、かわいいから許せる。とか「まあ、女性だから」

ってなりますし。

 

 

こんなに外見が重視されるのも、

女性は男性との関わりを通して社会の中で位置付けられた歴史とか

日本は男性優位の社会であった歴史があること。

例えば、「社長婦人」とかみたいにね。

 

 

こういうのが、どこかやはり女性の中に「地位のある男性から選ばれること」に

視点をおいている部分が残っているからなのかもしれません。

そしたら、まあ、比較しますよね。

選ばれるって、いうのは他の比較対象がないと生まれませんし。

 

 

 

『誰かから選ばれる自分』つまり他人の評価で自分の外見を左右されている

ことに気づけば、ダイエットの本質に気づくひとも増えるのでは?と

ちょっと考えてみました。

 

 

 

んで、痩せすぎ・太りすぎが自己管理ができてない。って思う人、ちょっと偏見だと

わたしは思う。

 

 

例えば、体のホルモンのバランスや、薬の影響でどうしても体重が増加傾向に

なる人もいるし、

そもそも、体って自分の体を一生懸命守っているんですよ。

だから、自己管理って、ひとくくりにしてしまう人に

わたし個人は正直視野が狭いなあと思う。

 

 

過食も拒食もそういう『世の中の評価』が、ますます本人を追い込むことに

なる場合もあると思います。

 

 

 

わたしは過食をするけれども、

根本的に運動が嫌いなわけじゃない。

 

 

それに、今過食をやめると、自分の心の安定がなくなるから、

守ってくれてるんだと思う。

 

 

何回もダイエットしたからこそ、

ダイエットって、目先の見た目の解決にしかなっていなかったことが

わかったし、過食する自分を否定したくないので二度とダイエットはしない。

 

 

そんなことより、自分がどうして今、過食が必要なのか?

とか、他のストレス発散方法っていうよりも、

自分の性格やバランス、どんなときにストレスと感じるのか?

考え方の癖や特徴を知ってうまく付き合うほうが

よっぽど健康的だし、2度とダイエットしないことにつながると思う。

 

 

そのバランスをとるために、他のストレス解消という

お酒や異性に依存したって、また同じ繰り返しになってしまうから。

 

 

健康やダイエットの定義は人それぞれ考え方があるかもしれないけれども、

わたしは医療現場で本当に蜜に体と心がつながっていることを知っているので、

過食も拒食も否定したくないなって思った。

 

 

 

 

 

きいてください。

この詩ご存知ですか?

 

 

 

『-私の話を聞いてください-』

私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは助言を始めます。
私はそんなことを望んではいないのです。

私の話を聞いてください、と頼むと
あなたはその理由について話し始めます。
申し訳ないとは思いつつ、
私は不愉快になってしまいます。

私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは何とかして私の悩みを
解決しなければならないという気になります。
おかしなことに、それは私の気持ちに
反するのです。

祈ることに慰めを見いだす人がいるのは
そのためでしょうか。
神は無言だからです。

助言したり、調整しようとはしません。
神は聞くだけで悩みの解決は自分に
まかせてくれます。

だからあなたもどうか
私の話を聞いてください。
話をしたかったら、私が話し終えるまで
少しだけ待ってください。
そうすれば私は必ずあなたの話に耳を傾けます。

 

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これ、ほんとそうだなーと思って。

本質をついてるなーって。

 

『きいてくださいよ!』って人の話をきくことになると、

 

 

間違いや、矛盾点を指摘したり、

アドバイスしたり、

正論言ってみたり、

自分の経験と重ねていつの間にか自分の話をしていたり。

 

 

そんなふうになっていませんか?

 

 

 

わたしは、

アドバイス上手な人よりも、聞き上手な人のほうが

とても幸せそうに感じるしみえるし、

なんかあったときに相談したいなって思えるのは

聞き上手な人が一番最初に思い浮かぶ。

 

 

なんでだろう。アドバイスは余計なお世話だと思っているからだろう。

人に話すことで、自分の考えが整理できること、たくさんあるしね。

 

「いいものに触れる」≠値段が高いもの。

今日は、いいものに触れる。の意味について、とっても感じたことがあるので、

ちょっと書き残しておこう。

 

 

今までのわたしの「いいもの」はどこか値段の高いもの。とか、だった気がする。

 

 

多分それは、周りの人が、高級ホテルのラウンジや、高級ホテルでコンサルや、

なんとなく自分では違和感がありつつ、数年前までは

そこに触れることや、

そういうものに日常的に触れることができる人と一緒にいることが、

いいものに触れる。だと勘違いしていた。

むしろ、そういうのに触れられる自分であることが、

より良い自分になっていく気もしていた。

 

 

 

東京に出てきたばっかだったし、東京への憧れもあったし。

今思えば、それはわたしにとっては「いいもの」じゃなかったなあと思う。

 

 

 

昨日、温泉に行ってきた。予算、時間も含めると、

そこまで贅沢な旅行はできないけど、

どうしても譲れない部分は、「部屋食」「緑豊か」「畳の部屋」

これだった。

 

 

観光地よりも、どちらかというと、何もない場所のほうが好きなので、

結局、1人で、近場の湯河原温泉に行ってきた。

 

 

近いのに、今まで目に入らなかったんだよね。

そこが、ほんと、なんもなくて笑!!

 

でも、泊まったお宿の食事が、

もう思った以上にめっっっっっちゃくちゃ美味しかった!!!

 

 

値段もそんなに高くないし、何より「なにもしない」のは

今までどこか「何かしていないと落ち着かない」わたしには、

結構心配な部分あったけど、

めっちゃ大事だね。この何もしない時間って。

 

 

この温泉に出かける前に、テレビで、

長塚京三さんが、「そうだ、京都にいこう」のJR東海のCMがもう今年で最後って聞いて。

そういえば、わたし、My favorite thingsってゆうテーマ曲がすごく好きで。

高校のとき吹奏楽部だったから、思い出してyou tubeで聞いていた。

 

 

そしたら、関連動画で、すっごく素晴らしい動画に出会った。

youtu.be

 

20年前の音楽らしいんだけど、この人たちの他の演奏してる動画みたり聴くだけで、めっちゃくちゃ楽しそうで!!

わたしにとっては多幸感が半端なくて、

久々にCDを購入した笑

 

 

 

 

 

なんだろうな。

いいものって、単に自分が本当に心が震えるもの、とか、惹かれるもの。

だと思う。

わたしは、あまり写真を撮ったりしないけど、

旅行や遊びに行って写真をとらない理由は、

自分が感じているその空間・料理の味・匂いとか雰囲気とか、寒さとか、

そういうものを、その場で感じることがすごく好きだから。

 

動画や写真とってる時間がとてももったいないなって思うから。

写真とるのも恥ずかしいしね笑

 

 

ライブ感がすごく好き。

 

いまお金をかけたいなって思うものは、

お芝居とか、こうゆうビックバンドのライブ、素朴な場所への旅費。

こんなとこだけど、

 

 

いい「お芝居」=値段の高さじゃないし、大物女優じゃないと思う。

これ楽しそう!安いけど笑 とか、

 

いい「音楽」も、わたしにはyoutubeでこんな感じで無料でみれるし、

CD毎日聞けたら、歌とかよりはるかに幸せ!!!って思う。

これきっかけに、ライブに行きたい!とか思うし、

 

 

いい「旅館」は、高級ホテルで高くて美味しいもの!より、

わたしにとっては静かな場所で、旬のものをその土地の料理でいただくこと。

とか、古さ=風情だったりするんだよね。

 

 

 

「自分の中」のいいものっていうのはそれぞれ違う。ってこと。

こういう自分の中のいいと思うものが他の人と違っても、

それに従うことで今回見えてきたのは、

やっぱり、「言葉がない空間」とか、「その場を存分に味わう」

特に、季節を感じることってめちゃくちゃ大事。

 

 

今回旅行を通して、何もしないことの大切さっていうのは、

ゆっくりできることじゃなくて、

なんというか、多分、

思った以上に自分は色々なしがらみに縛られていることを

実感・自覚することとか、

心に従うことの本質に気づくことだと思う。

 

 

気づかない間に、普段の食事がおろそかになっていたり、

そういう日常生活と自分の無意識の心のズレを修正する機会なんだと思う。

 

 

それで、しばらくは生活の目線が変わったり、

こういう機会をきっかけに、本当に自分がほしいものは何なのかが

わかる。

 

 

日本ってまじでいい場所だし、海外も素晴らしいけど、

やっぱり人間って帰巣本能があるんだなって思ったわ。

 

 

自分がいたい場所を選べば、自然に体にいいものを食べて、

自然に運動もできるように人間てなっている。

動物なんだなーって思った。

 

 

だから、もし、

誰かのいいものに翻弄されていて、どこかなんとなく不安になったり、

焦ってしまう気持ちになる人は、

安くても、自分が譲れない部分だけを満たしている場所に

自分で選んで行ってみてほしいなと私は感じたよ。

 

 

 

柿食べよーっと。

もっとシンプルに生きる。

やらなきゃいけないコトが山ほどあって、

もうどうにもやりたくなくて笑、ちょっと息抜きに。

 

 

最近、人と合うことがめっきり少なくなった。

 

というより、まあ、本当に大事な人にしか連絡をしなくなったし

あまり交遊を広めることもなくなった。

 

 

 

いいお洋服はいらないし、

たくさんのお友達もいらない。

facebookもいらないので、そのうちやめるとおもう。

東京も、物がありすぎていやだし、

わたしはカーテン開けて、緑がある部屋に住みたいし、

都内にいるとやはり、物も人も溢れ過ぎていて、

選択に困るし、

自分にとって無駄なものを選んでしまう自分も嫌なので、

近々引っ越しも時期をざっくり決めているので、

東京から去ると思う。

 

 

髪もばっさりロングからショートに切って、

気持ちもさっぱりして。

 

 

どうしてなんだろうな。

 

色々本気で自立してきたのだと思う。

 

 

1人で生きていく覚悟も精神的に覚悟ができてきた。

寂しいときもあるけれど、それは一時的。

周りに助けてくれるひともたくさんいることがわかっている。

 

 

男性なんていらないのではなくて。

多分本気で自分のしたいことを覚悟をもってやる覚悟ができてきた。

 

 

自分のことを誰も知らない場所でやっていく自信はあるし、

今までそうやってきたし、

わたしはそれが好き。

住みたい場所に移り住むことも好きだし、そこでの新しい場所も好き。

 

 

多分それが自分の気持ちよさだと思う。

 

離れるからこその大切さを感じることもできるし、

離れると逆に大切なものしか残らなくなる。

 

そっちのほうがとてもシンプルで、もっともっと大切に大切にしたくなるから

わたしはそれでいいのだと思う。

 

 

ガチャガチャした東京の街も楽しかったけど、

自分がほしいのは「たくさん」の「新しいもの・刺激」ではないので

必要最低限な少しの大切なものを大切にできる自分でありたいって

強く思う。

 

 

刺激で幸せを感じる自分よりも、

あるものでシンプルに幸せを感じれる自分のほうが断然わたしは好き。

 

 

表面で付き合う人たちもいらない。

依存しあう関係性もいらない。

たくさんの仲間よりも、心から信頼し合える少しの友達がいい。

孤独が最近はちょっと楽しい!自由が楽。

 

 

もっともっとシンプルに生きていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カウンセリング後期に入っての変化

小学校1年のとき、

入学式だったかな・・

「友達100人できるかな♫100にーんで食べたいなー

富士山の上でーおにぎりをー」って曲があって、

 

 

わたしはその曲を聞いて子供ながらに、

友達がたくさんいる=いいこと。

みたいに洗脳されていたと思うw

 

 

今では、「いやいや、そんなことないっしょ。それは人それぞれじゃん。」って

当時の自分に言ってあげたい。

 

子供のころはなんでも信じたなあ・・と思ったし、

どこか子供の頃に聞いた話って自分の中に根付いているんだなって。

 

 

今思えば、100人ほしいと思って頑張って友達作ってるじぶん・・・

想像しただけで、つらっ!!笑

 

 

今すぐそんなこと、やめちまえ私ww

 

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さて、今日はカウンセリングの勉強にいってきました。

あと少しだと思うと寂しいなあ。

 

 

今日ちょっと感じたことがあるので覚えておくために書いておこう。

 

 

今までわたしは、人の話を聴いたときに、

「話を理解したい」というより、どちらかというと、

「話を聴いて理解しなければいけない」って思ってたんだよね。

 

 

 

最近、人と話しているときに、

自分が理解してほしいって思うことが、伝わっていなくて、

というか伝わっていたんだけど、「わたし自身が感じているつらさ」みたいなもの

が理解してもらえないんだなーってコトがあった。

 

 

それが勇気だして言ったことだったから、余計に相手の反応をみて

結構ショックだったんだよね。

 

 

 

なんでかって、その人なら「理解してくれるかもしれない」って

思って話したことだから余計にね。

 

 

 

理解してほしかったし、理解されることを期待していた。

 

 

まーでも何が一番悲しかったのかって、

自分が決意して前を進もうとしているコトに対して、

ただ、応援して頑張ってね。って言ってほしかったのだと思う。

 

そして相手自身の「つらさ」の枠にはめられている感じがして

わたし目線での「つらさ」として、感じてもらえていないのが悲しかったんだよね。

 

 

そうそう、わたしは誰かから「こうしたらこうなるんだよ!」

っていう答えがほしいわけじゃなくて、

自分で自分の道は決めたかっただけだし、

それ以上相手に何も言えない自分や

相手に対してうまく気持ちを伝えられなかったことがいやだったのだと思う。

 

 

 

でも、よくよく考えたら、1回で相手のコトを理解するなんて

自分だって無理だし、

いい意味で「やっぱり他人に自分の気持ちを理解してもらおうなんて無理なんだな」

と諦めがついた。

 

 

相手に理解してもらえてないと感じる≠拒否された。

わけではないんだよね。

 

 

 

これを感じてから、

「たったの1回で相手の話を100%理解しよう。してもらおう。」なんて

無理だし、そこに期待したり、頑張るのはやめようって思った。

 

 

そしたら、ちょっと曖昧なままカウンセリングが進んだ。

 

 

曖昧っていうのは、

「この人はこう感じてるのかなー。わかんないけど、とりあえず話きいてみよう」

ってどこか肩の力が抜けた感じ。

 

 

そしたら、結構今までみたいに、

「話聴かなきゃ!理解しようとしなきゃ!」とかそんな気負いみたいなのが抜けて

今まで自分が悩んでいた部分が結構改善されていた。

(周りからのフィードバックがあるのでそこでそう評価された部分もある)

 

 

 

多分、大事なことは

「正しく話を理解しよう」とすることではなくて、

話を理解しようとする姿勢が大事。

 

 

それがないと、どうしても自分の主観で、

「きっと相手はこう思っているはず」ってどこか断定というか、

決めつけてしまって話がすすんでしまう。

 

 

・あの人は評価を気にする癖があるよね。

・あの人は、自分のこと否定しているからあんまそれはよくないよね。

とか。

 

 

 

すると自分の考えの枠の中だけで話がすすんでいるから、

自分目線でしか相手のことが理解できないのだなーって。

 

 

 

自分が、こうやって変わってきていることがとっても嬉しかった。

 

 

そして、「諦める」ってこういうことなんだろうな。

ってちょっと体感できたからよかった。

 

 

理解しようなんて無理だからこそ、何回も話を聴けばいいのだなって。

 

 

後半に入って、自分の心を深くみつめて人生を歩んできているか

人として試されているなって思うことや、

自分の気持ちにより敏感になってきたのかなーって思う。

 

 

 

わたしは、自分の外見は嫌いだけれども、

自分の内面に関しては結構好きだなって思う。

 

 

 

今の自分が認められないのは、わたしの場合、

「外見」からくるものがとてつもなく大きい。

 

 

内面は、完璧主義なところもあるけれども、

ちょっと悩んでしまう弱い自分もあるけれども、

弱さをみせられる自分のことは結構好きだなあって思う。

 

 

 

迷ってしまう自分も、

はっきり物事をいう自分も、

自分に全力投球なところも、

人に対してちょっとおせっかいだけど、温かみがあるところも、

愚痴を言いながら、「性格悪いなー」って笑える自分も、

もっともっと自分のコトを好きになりたい!!!ってちゃんと自分と向き合おうとしている自分も、

さみしがりやなところも、

甘えベタで不器用なところも、

今の自分の性格は結構好きだなってやっと思えるようになってきた。

 

 

じぶんの体を好きになってあげたいなあ・・・って思う。

 

 

自分の体に対して、ごめんねって思う気持ちもあるけれども、

自分を大切にしたいからこそ、そうやって悩んでいることに対して

否定したくないし今のなんとかしたいって気持ちを大切にしたいなと

思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この人なら理解してくれそう。と思える人に。

自分自身が、悲しいときとか、つらいときに

ふと「話を聴いてもらいたい」と

思える人が何人思い浮かぶだろうか。

 

 

わたしは2人くらい。

 

 

わたしの話をいつも全肯定してくれて夜中にいつも電話がつながるAちゃん。

いつも自分の経験や主観を排除して、わたしの立場になってくれるBちゃん。

 

 

いつも3人で月1くらいで食事をする。

食事中はジャニーズの話とかそんなんだけどね笑

 

 

2人に共通しているのは、

いつもポジティブとかそういうのではなく、

 

 

人の話を自分の主観を通してみないこと。

 

だと思う。

 

 

人の話を聞きながら、

「わたしは○○に感じているが、あなたはそうなんだね」と

フラットに人の話が聴ける友人たちである。

 

 

 

わたしはどうしても自分の主観を通して物事をみてしまうので、

彼女たちのようになりたいなーと思っているけど、

いい意味で、自分を捨てないとできないことなので、

彼女たちの人間性はいつもすばらしいなと思う。

 

 

自分を知ってほしいという欲もなく、

ただ話を聴ける友人はわたしにとっては本当にありがたい存在である。

 

 

 

じぶんもそうなっていきたいなと思う。

 

 

 

わたしは、人に頼る。ということの本質が、あまりよくわからないのだけれど、

大事な話をしたい。と頼りたくなる友人というのは、

ちょっと頼ることを教えてくれる存在でもある。

 

 

どうしても、人のことはよくわかるような気がしてしまうので、

「なんであの人はできないんだろう」

「わたしはこうしてきたのに」

「いい加減現実みようよ」

 

 

なんて言われると、思われると、

ああもう「この人には大事な話はしないでおこう」と思う。

 

 

実際友人から言われたことがあるのが、

「今までのりなさんはずっと、自分が頑張ってきたことや頑張っていることに対して

相手が頑張っていないと、「なんで○○しないの?」と言っていたけど、

もしそのままなら、わたしは友達はもう続けられないなと思った。」

 

 

 

と話されたことがある。

 

 

これはすっごくよくわかる。

 

 

頑張っているのは、「誰だって」頑張っているんだよね。

そして、「誰だって」自分を否定なんてしたくない。悩みたくない。

って思っているんじゃないかな。とわたしは思っている。

 

 

 

そこに、「できている」「自分を否定している」「自己否定はよくない」「頑張っていないのはよくない」など、

ジャッジを下しているのは、まぎれもない話相手であった自分自身だったのだとおもう。

 

 

今でもそんな部分はある。

でも、苦しんでいようとそうでなかろうと、

現実逃避していようとそうでなかろうと、

ジャッジしている限りは、

相手を理解することは到底遠い話なのだなとわたしは感じている。

 

 

だからこそ、自分が他人に対して無意識につけているクセに気づいて

意識していくことが大事なんだなって。

 

 

わたしは、

「この人ならなんでも知ってそう。教えてくれそう。」って人ではなく、

「この人なら安心して話せそう」と思われる人になっていきたいなあ。

 

 

 

今感じている自分のつらさとか弱さとは嫌だなって感じている部分は、

自分の経験としてとても大切だけど、誰1人感じ方は違うということ。

 

 

そして、誰かに「わかってほしい」と思うから、

傷ついたりするんだろうけど、

もうそろそろ、誰も自分の気持ちをわかってくれる人なんて1人もいない。と

諦めないとね。

 

 

諦めるってすごく大事だ。

 

真面目過ぎるわたしはとても諦めることは苦手だけど

少しずつあきらめていきたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神様と直感と現実と。

 

先日、季節を『感じること』について書いたけど、ここに直感についても

触れていたと思う。

rinachan.hatenadiary.jp

 

先日同僚と話をしていて、

『直感』と『霊感』って違うよね。と話していた。

 

 

 

以前のわたしは、結構占いに行っていた。

占いが好き。とかじゃなくて、なんか困ったら占いに行く。という感じだ。

 

 

神様がいない。なんて思ってもいないけれども、

困ったときに、神社に行って、

『神様、すごくつらいです。助けてください。どうしたらいいですか』

と言っても、返事はいつまでも返ってこない。

 

 

神様はいると思う。ただ、何が言いたいかというと、

神様は答えをくれない。ということだ。

 

 

 

ここで思うのは、いい意味で、

神様は答えをくれないのだと、諦めることを学んだ。

つまり、自分しか答えは出せないということだ。

 

 

 

でもそんな思いは忘れてしまうわたしは、困ったときはとにかく

この胸のモヤモヤや不安を取り除きたくて、

『誰か』に答えを求めていた。

 

 

これが、すごい。と思う人でも、

宗教の教祖であろうと、

スピリチュアルの神様であろうと、

正直わたしにとっては同じである。

 

目の前の何かにすがりたかったのだ。

 

わたしにとっては、自分の不安を解消してくれる安全・安心な場所に

変わりはなかった。

ただ、何かにすがれればそれでよかった。

 

 

 

誰かの発する言葉に、『すごい!あの人のいうことはいつも素晴らしい!正しい!

あの人といれば「上がれる」』

と、思っていた。

そして相手はいつも「わたしはあなたの味方だよ」というサインを送る。

ただただ親身に話を聞いて、話を全肯定する。

その後、「誰にも話せないことを聞いてくれ、否定なく受け入れてくれた」と

思い、自分のことを理解してくれる人はこの人だ!

なんて思う。

そのうちにアドバイスを聞いているうちに、何か自分にとって良くないコトに会った時

「あ、その人の言ったとおりだ。」ということが重なり、

「すごい!」と、まあ、あたかもその人が言ったとおりになったと思い込もうとする。

そのうち疑うことに罪悪感を覚えているにも関わらず、

なぜか人を信頼しないこと=悪いこと。みたいな構図な頭になっている。

 

 

正しい、正しくないとか、そんな出来事を引き寄せたとかじゃなく、

自分自身がそれを正しいと思い込んでいる。その通りになったと思い込んでいるだけ。

 

 

 

まあ、そのうち、どっぷりハマってお金を遣い続けたけど、

高い教科書代です。

過去は変えられないからね。

 

 

よく考えてみれば、

神様が答えをくれないんだから、他の何も答えをくれないでしょ笑

 

なのに、人間様が神様より偉い存在なの?

 

 

不思議なもんで、誰かを神様の代わりか預言者みたいにしてたんでしょうね。

はっきり言って、これ、依存以外の何者でもないですよ。

と、当時のわたしに言ってあげたい。

 

 

 

1つのエッセンスとして、誰かの言葉を取り入れて人生を豊かにしていくのが

自立した人間というものだと思う。

でも、その信じている「なにか」が正しいとか、そんなふうにちょっとでも

感じているのなら、ちょっとそれ怪しいですよ。

というのが今のわたしの感覚である。

 

 

わたしは直感は大事にする。

これがほしいとか、ここに旅行に行きたいとか、そういうのじゃなくて。

 

 

『ここが気持ちいいなあ』と感じる場所や、

『なんとなくここは危険な気がする』とか、

『なんか違和感があるんだよな』とか、

そういうものをわたしは直感だと思っていて、

それは人として備わっているものだと思うし、その自分だけの

感覚を大切にするためにも、東京は離れたいと思っている。

 

 

 

そういう、こう動物としての直感以外の、

なんだろう。

例えば占いでは、『あなたは家族か友人のことで悩んでいませんか』とか、

そういう誰にでも、なるほど!と、当てはまるようなこと。とか、

誰でも言える安っぽい発言はちょっとなあ。とわたしは信じていない。

 

 

 

 

 

『自分だけは違う。』とか、

自分は依存しているなんて思わない。とか

一種の『自分だけは違う』という特別感っていうのを持っていたら

ちょっと注意が必要だとわたしは思う。

 

 

 

それ、詐欺とかの被害者と同じだよ。

ホストとか、いったことないからわからないけど、

わたしは行かない。

わたしは弱い人間だから。

 

 

ホストに行った友人がいて、最初は5000円スタートだったけど

そのうち、その人がお迎えに来てくれたり、優しくしてくれて、

通うようになって、ボトル入れて、『大丈夫大丈夫。わたしはホストには

はまらないから』と言ってた彼女が2週間ですでに5万以上費やしていた。

 

 

元ホストに話を聞いたら、ホストは客のためなら、

どこへだって行くし、体の関係ももつ。そんなん当たり前だよ。

って言われて、ちょっと恐怖を覚えた。

 

 

それがすべてじゃないけど、

好奇心で手を出したら、気がついたらとんでもないことになる前に

ただわたしは、そこには行かないだけ。

何度も言うけど、わたしは弱いから。

ただでさえ砂糖中毒で誘惑に勝てない私が、さらなる中毒を

求める必要はない。

 

 

 

1度騙された人は2度騙されるっていうけど、

本当にその通りだと思う。

 

 

わたしは人を信頼しないことは良くないとは思わない。

疑うこと≒悪いこと。ではないと思うからだ。

 

 

人に理解してもらいたいと期待するから、

裏切られたと感じたり、人を信頼できない自分をせめてしまう。

けれども、そもそも自分以外の人間に自分のことを理解されるなんてこと

多分ムリだと思う。

寄り添ってもらうことは可能だけど、完全一致は無理。

 

大切なことは、

この人に裏切られようがそうでなかろうが

わたしはこの人を信じる。

もし、何かあったら自分自身が見る目がなかったのだ。

 

 

と覚悟決めて、信頼したい人だけ信頼すればいい。

 

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正常な人間は、先に書いた、直感というものが働くが、

 

 

正常じゃない状態では、直感は働かなかったり、

違和感を感じても、どこか何かの(不安とか誰かからの支配とかの)恐怖に

支配されているためか

違和感をなかったことにしたり、現実逃避して、今の状態を正当化しようとする。

 

 

ただ、思うのは、

今カウンセリングの勉強にいっても占い師さんとかいたり、カウンセリングの世界でも

スピリチュアルな世界が含まれているものもある。

 

 

じゃあなにが違うかって、

「今ここの現実をみているかみていないか。

自分は自分の中に答えを求めているかどうか」だと、わたしは思う。

 

 

 

現実直視しろというのではなく、直視できない自分を認めているか否か。

ってこと。

 

 

 

わたしは弱い。共依存の恋愛をしていた。

けれど、自分が2度と同じ繰り返しはしないと思ってはいない。

 

 

その時の自分がつらかったし、2度と同じことは嫌だからこそ、

もう1度起きないように、注意しながら前に進んでいる。

 

 

人を好きになったときに、まずは自分はこういうことがあった。と認識して

自分の好きになる人の傾向を知ること。

まずは今までの考え方を疑っている。

 

 

同じ繰り返しをしないために、傾向と対策を講じるのだ。

これが学習することだと思う。

 

 

でもね、ほんとに現実みたくないときは、

『なんでかわからないけど、同じことを

繰り返してしまう。

でも原因がわからない。』

こんなことが思い浮かぶ。



ただ、私は、そんなとき、

今まで自己啓発や占い行ってたけど、

自分でもダメなら、もう、専門家に頼ろうと

決めた。



原因不明の熱が何回も出たら、

病院行くのに、

なぜ心のことだけは、本や占いや自己啓発

走るのだろうか。



心のことだって、大切な自分の体。

だから私は「なんとなく」知ってる人や、

専門家でないのに、安易に取り扱うことは

とてもとても危険だと思う。



どう選ぶかは自分次第だが、

まぁ自分のお金だし、私は現実みることを

選ぶだけ。




ただ、人生は学習の繰り返しだし、失敗があってこそ。

人により程度は違うけど。

 

 


言いたいのは、神様でもスピリチュアルでも、答えはくれないよ。

 



その答えをくれる人は、

「その人」の「頭に思い浮かんだこと」

をあなたに伝えているだけ。



 

頭でわかっていても、やってるつもりでも、

できないときは、

そんなふうに誰かに答えを求める自分がいることを

ただただ感じてみてほしいなと思う。

そこにいい、悪いは関係なく^^

 

 

わたしもとてつもなく寂しかったり、孤独感を感じる夜があったけれど、

寂しかったら友人に連絡したり現実に目を向けることで、

自分には助けてくれる友人がいて、1人ではないと実感する。

 

 

 自分は弱い。

弱いから何かにすがりつきたくなるときがある。

そんな弱さを受け入れれなくても、

自分の弱さに気付くだけで、

今、弱さを持っていることがわかるだけで、

見えていなかったものに、ふと気付くことがあるなぁと思っただけ。




特にそういう目に見えないものを

取り扱っている人は、

そのくらい人の繊細な部分を

取り扱うとともに、

そこには自分が思った以上に責任が伴うということ。



「スピリチュアル」という言葉に

逃げているだけなのかどうか、

見極めるのは自分だけ。



何がどう違うのかがわからないなら、

もしかして依存してるだけかも?ね。




長くなったし眠くなったのでここで終わり。