わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

ダイエットと自己啓発。

去年より体重がなんと8kgも増えてしまったわたし。

最近、食事手帳をつけ始めました。

文字に起こせば、自分のできている部分/できていない部分が、

客観的に目に見えます。

 

 

でも、書いても客観視できていない・・笑

明らかに・・・笑

 

 

で、気づいた。これ、自己啓発と同じやん!!!!

 

 

 

以前は、わたし、定期的に自己啓発に投資していた過去があります。

今は、まったく自己啓発には投資していません。

 

正直、今思うとダイエットに似ている。

 

 

自己啓発に投資していたとき、

わたし、どっかで、

自分がなんとなーーーく不安で、すっごく環境や人に左右されていたんですよね。

環境はとても大事で、一緒にいる人でとても考え方が変わる。

 

 

でも、正直自己啓発に費やしていた時って、

漠然と今の自分がなんとなーーーく嫌だし、

かといって、何が嫌なのかもわからないし、

ずっと悶々とするし・・・・

何がしたいかわからない。自分探しみたいな。

 

 

後退したくないから、何かやっているすごい人たちや

向上心がある人たちと一緒にいないと、

自分がダメになるって思ってた。

 

だから、いつも少しづつそこにお金かけてた。

 

 

でも、いつも漠然としていて、

はっきりと、もうこれが嫌!!!とか、絶対にこんなふうになりたい!!!

とかってなかった。つねに。

 

 

自己啓発にお金かけて、同じような悩んでいる仲間といて、

悩んでいる自分を相手に投影して、

あーみんなもわたしと一緒で悩んでるんだ。と、

どこか安心感を得ていたのかも。

 

 

 

わたしがダイエットで何回もリバウンドしたり、

いろんなジムとかに行ったりするのも、

ノートに書いても、よくわからないのも、

ぜーーーーーーーんぶ、

 

 

なりたくない自分。つまり、この場合「絶対に痩せている自分がいい」という

強い決意はないし、

逆に、なりたい体型もそこまで強くこうなりたい!!!とかないし

2度と戻りたくない!!!っていう気持ちないもん。少なくとも今は。

 

こんなわたしが、痩せると思う?痩せないよ、絶対。

本気で痩せようと思っていないんだから。

 

 

ジムやダイエットをしていることだけで、とりあえず意識むけているだけで

安心感を得ているから、痩せない。

 

ただ、それだけである。

 

 

本当はぶっちゃけ太っているって認めたくないし、

自分はまだまだ普通のサイズの服もいけるし。

 

 

とか思っている。

 

 

だから痩せないだけ。

ただそれだけ。

 

 

 

自己啓発も全く同じだ。

やめたのは、わたしは自己啓発に限らず、

何かに依存したり孤独で不安になっている自分が本気でヤバい!!!!

こんなの絶対にいや!!!!

って心の底から思ったから。

今でも2度とその時の自分には戻りたくないって思っている。

だから、一切自己啓発には興味がなくなった。

 

ダイエットの体型キープも同じだと思う。

 

私は以前の自分の心の状態の戻りたくない。

だから、そのために、今の自分をどう良くしていくか。しか考えていない。

 

 

体型維持できる人もそうじゃないのかな。

以前の太った自分には絶対にもどりたくないとか、

もっときれいになりたい!とか、仕事で絶対にスタイルキープは必須!!とか。

そういう明確だからこそ、維持ができるのだと思う。

 

 

 

今のわたしは、

今では自分のことは好きだ!!!って心からまだ言えるわけじゃないけど、

少なくとも、将来1人だったらどうしよう・・・とか

やりたいことがわからない・・・とか、

1人で寂しくて仕方ない・・・とか、

孤独で怖い、さみしい・・・とか

こういうことは、いっっさいなくなりました。悩まなくなった。

 

 

自分のことがわかってくれる友人が数人いればいいし、

与える・与えない。とかで気にすることもない。

別に好きな人たちの喜ぶ顔がみたくて、プレゼントしたくなったらする。

ただそれだけ。

友だちとは気軽に割り勘で食事をし、お金を払う払わないとか悩んだりすることもない。

利害関係が発生する人たちとは、わたしはいないことを決めたから。

 

 

利害関係のない関係が、とても心地がいいし、

お金に以前は困っていたりしたけども、今はお金も溜まってきている。

自分の仕事は大好きで誇りを持っている。その中で働き方は悩んだりはするけど

わたしからこの仕事をとったら何も残らない。っていうくらい仕事には真摯に向き合おうとしている自分はとても好きだし、そんな自分を誇りに思う。

 

 

 

ってことで、体型の現実みろよ、わたしーーーーーー!!!!

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自分がいたくない場所からは、逃げるが勝ち。

威圧的な人がめんどくさくて、

どうしても避けられないのなら、うまくやろうとしているけどできなくって、

まじでそれが嫌で、

 

 

ついに理不尽な言葉に涙が出てきて、もうしょうがないので、

仕事、休みました。

 

 

でも、泣きまくって、ネガティブしまくったあとに思った。

 

うん、やっぱり逃げようって。

 

 

よく考えたら、そんな人たちに時間をもう奪われるのはいやだなーと。

 

 

わたしは看護の仕事が超好きで、

とにかく出世したいなんぞ一度も考えたことがない。

 

そんな出世のためのテストや研修をうけるくらいならば、

そのお金で、出たい看護セミナーでまくって、翌日仕事に生かすほうが

生きている心地MAXなのだ。

 

 

宇多田ヒカルとか、櫻井翔とか、吹石一恵とか、深キョンとか、

瑛太とか、小栗旬とか、藤原竜也とか、

 

そうそうたる芸能人が同じ年のわたしですが、

同じ年でこんなに人として魅力的な人たちをみていると刺激される。

 

 

 

結婚もしてないし、こどももいないけど、

やっぱり仕事するなら、どうせ仕事するなら、

一生懸命仕事したい。

 

でも、今の職場はかなわない。

 

大好きな仕事をしているのに、つらかったんですよ。

 

 

わたしが見直すべきところは、

人間関係やコミュニケーションではなく、

 

自分の仕事の熱意が活かせる場所だった。

 

 

熱量が違ったり向いている方向がズレている仲間といることは

結構きつい。

 

 

今の職場でも、学ぶことはたくさんあった。

いい意味で力を抜くこと。あきらめること。

相手の立場にたつということの本当の意味。

 

 

人として成長できた場所だと思う。

 

 

でも、やっぱ仕事が充実していないっていうのは

独身のわたしにとって、生きがいを奪われているようなもの。

 

 

ということで、

決めました。

 

 

今の場所から逃げることにしました。

 

 

今まで自分自身で決めたことで悪い方向に動いたことは一度もないので

きっと大丈夫。

 

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3週間前に研修で、

「あと余命半年ほどの自分に、天国にいった自分が、語りかけたとしたら、

どんなことをあなた自身に諭すでしょうか。」というものがありました。

 

 

 

わたしのしたいこと。

・大切な人たちにお礼を言うこと。

・家族ともしもの時の事を話あっておくこと。

・大好きな看護師の仕事で、行きたい分野に行き勉強すること。

 

2週間以内にできることは、「家族に連絡すること。」でした。

 

 

災害も重なり、家族に連絡もとれ、次回実家に帰った時に、

家族でもしもの時について話しあう方向になりました。

 

 

きっと余命数ヶ月と言われて、できること、したいことは、

旅行に行くとかより、もっともっと身近なものなのかもしれません。

 

 

当たり前のことに気づくことや、

家族や大切な人の時間を大切にすること。

その当たり前の今までの環境に感謝できること。

 

 

あくまでわたしの場合は、自分が大切にしたい人。

大切にしてもらった人に、一言心からお礼の言葉を言うこと。

 

 

きっとこれだと思う。

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ずっとずっと話していますが、わたしの大切にしていることは、

「感謝すること」ですので。

 

 

 

どんな形でも、頑張っても、同じ方向に向けない人たちもいましたが、

それでもやっぱり感謝はしています。

自分が未熟だったことから受け入れれなかったこともあるけど、

失ってから気づくものもあったし。

その人たちがいたからこそ気付ける、自分が大事にしたいものも見つかった。

 

 

 

譲れない自分の気持ちは大事にしつつ、あとは妥協できるところは妥協していく。

そのさじ加減が大事なんだと。

 

 

死ぬ時はあんなドラマみたいにしゃべれない。

意識がどんどんなくなっていき、呼吸をするので精一杯。

目の輝きももうほぼなくなってしまう。

会話は成り立たないことも。

そういう死の形がほとんどです。

 

 

こんなに死を身近にかんじているわたしでも、

結局どこか死ぬことは他人事のように感じてしまっているのです。

 

 

日常的に触れることで、感覚が麻痺しているとかそんなんではなく、

毎回、感じるんです。

絶対に生まれてきたら誰にでも避けれないもの。

慣れるというより、受け入れることができてきたのだと思います。

 

 

少なくとも私自身は、人の死ぬところをみて、何も感じないことはないです。

ただ、この人の人生はここで終わりだけど、どんな人生だったのだろうか。とか、

新人の頃は人が死ぬのは自分が至らなかったせいだとも感じて泣いたこともあります。

つらいのなら、事務的に処置しようと自分の感情をないものとして淡々と見送ってきたり。

 

 

でも、やっぱり、なんか違うんです。なんか違う。

共感しすぎると自分が保てなくなるので、今は、

目の前の人が自分の人生を終えたのだと。せめて自分たちができることは

ご遺体に話しかけながらお体をきれいにすること。

それが、自分ができる精一杯なんだと。

そう感じながら仕事をしています。

 

 

なので、いざ自分のこととなるとなかなか考えるのが難しいのですが、

少なくとも自分の人生を振り返る機会は他の仕事よりも多いので、

これからも立ち止まって考えていきたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分でたてた目標の奴隷になっていないか。

最近、なんとなーく疲れている。というより、

じぶんの「頑張り」の加減がわからなくなっている。

 

 

予定はたくさん詰めることはなくなったけど、

なんだか、毎日、ちょっとづつ、気づかないうちに

精神的に追い詰められていたようだ。

 

 

自分でもしらないうちに、昔の悪い「癖」が出てしまったときに、

「あーこれは、だめなやつだ」と思った。

 

 

なんだか自分1人でいる時間は多いが、

1人で自分の気持ちに向き合う時間が減っている。

 

 

ぽっかりと、大きくもなく、小さくもない穴が自分の心にあって、

そこを見つめる時間を作らなかったばかりに、

頭で考えることが多くなり、結果、どうやら頑張りすぎてしまったらしい。

 

 

てことで、逃げることにしました。

 

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今まで、自分の中で「辛いことに立ち向かうからこそ得れるものもある」と、

根性論みたいなものが、じぶんの中になんか植え付けられている。

 

 

いままでは、問題を直視して、解決する。という方法をとってきたけど、

それはどこか、根性論も含まれていて、

問題直視をしなければならない。になっているところもあったとおもう。

 

 

まあ、でも、やっぱ逃げるって大事だなあ。と。

 

 

最近はありがたいことに、新しく出会った人たちが、

お互いの内面をさらけあえる人で、それは年齢を超えていて、

やっと自分にも、本当の意味で、「縦」ではなく、「横」のつながり。

つまり、利害関係がない人間関係を

築けるようになってきたと感じている。

 

 

 

だからこそ感じるのは、

1人でも自分のことをダメって思う部分まで、何も評価せず、

理解してくれるという人がいることがわかれば

人間って安心できるんだなと改めて今更ながら感じた。

 

 

 

評価も、アドバイスもしない。ただただ、話を聴いてくれる人が

周りに増えたことで、

逃げることに抵抗があった自分の気持ちも、罪悪感なく、

「人に頼ることができて、えらいなあ」と思えるように

少しずつなってきた。

 

 

 

個人的な課題は、

・頑張っていることが自分でわからない。

・頼る加減がわからない。

・コミュニケーションの加減がわからない。

 

 

 

けど、

大事なじぶんの心を守れるようになったことは自分の大きな1歩だと感じている。

 

 

感情がなくなったことが自分で兆候としてつかめたからこそ、

「これは良くない」

と、映画を何本もみて、自分の感情を沸き起こそうとしたりしたけど、

自然に「良くない」と思って、いつのまにか頑張っている自分がいたけど、

わからなかった。

 

 

考え方の癖、話し方の癖、自分で気づくの大事だね。

 

 

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なりたい自分、理想の自分を追いかけすぎて、

まだこれじゃダメだ。と、今の自分を自己否定してしまい

「いつか辿りつくだろう未来の自分」にばかり意識がいってしまい、

「今この瞬間の自分」がどこか置き去りにされていました。

 

 

どこか、「自分でたてた目標の奴隷」になっていた。

 

 

見直すべきは、現実直視ではなく、

「まあいいか」とあきらめること。

特に仕事面でわたしは完璧主義な部分が抜けないので、

白でも黒でもない自分を、少しずつまた受け入れていこうと思う。

 

 

女である自分、恋人である自分、看護師としての自分、友人としての自分、

色々な役割をこなしていると、いつの間にか自分の役割に追われていると

いつの間にか、自分を見失うっていうことを改めて感じました。

 

 

だから、改めてNOT TO DOリストをつくっています。

SNSをしない。

年賀状は書かない。

電話はでない。とかね。

ブログも自分の気持ちの整理のみに決めました。すっきりするから書く。それだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分も相手も大切にするコミュニケーションの方法

最近コミュニケーションを学んでいくうちに、

感じたのは、言い方ひとつで、

相手への印象が大きく変わるなってこと。

 

 

例えば、

1、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「それはイライラするよねー。」

 

2、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「イライラしちゃうんですね。」

 

3、

A:「○○さんの☓☓な態度にイライラしちゃうんだよね」

B:「そうなんだ。でもさ、それはAさんの主観であって、人それぞれじゃない?」

 

 

って、ちょっとのニュアンスの差でも、

全然違う。

 

 

わたしがAさんの立場だったとして感じる印象は、

1は、共感している、またが同調してくれている。

2は、同調はしていない。けど、自分の気持ちを受け入れてくれている感じがする。

3は、正当な答えで、なんか突き放された感じがする。

 

 

このブログを読んでいる人は、どんな印象をお持ちでしょうか?

 

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わたしは、自分が強い人間とは思っていないので、

結構、3の対応をされてしまうと特に、「あー、この人には次回から相談しないでおこう」ってなってしまいます。

 

 

この「人それぞれだよね」って、とってもよくきく言葉なんだけど、

わたし個人は、使い方、気をつけないとなって思ってます。

 

 

 

なぜなら、

人それぞれ。なんて、大前提でわかっているんですよ。

でも、頭でわかっていても、気持ちがついていかない。

誰かに理解してほしくて、その気持ちと頭の中を整理するために話をしたくなるときがある。あと、ただ、どこにも気持ちが行きようがなくて、ただただ話たいときもある。

つまり、話を聴いてほしいだけのとき。

 

 

そんな時に、この、「人それぞれだよね」って言われると、

正直、じぶんの考えが否定されたみたいに感じるなあって。

責められているみたいな感じがして。

そんなことわかってるんだよ。でも気持ちがついていかないんだよ。

って言いたくなる。

 

 

きっと言った本人は悪気もないんだろうし、自分の意見を言っているだけなんだけど

きいている方は、自分の気持ちはどこか置き去りにされているような気持ちになるなって。

 

 

だから、わたし個人は、正当論というのは、ときに人を傷つけるし、

使い方に注意しないとなあと思います。

 

 

 

そして、同調するのも、ちょっと違うかな。

同調は、自分の意見を抑えて、相手にあわせることもある。

こうなった場合、これは、どちらかが優位になっている状態で、

コミュニケーションとして対等ではありません。

 

 

では、どうしたらいいか。

 

 

先日友人が話していたのがとってもよかったので、

わたしはこうしています。

 

 

まずは、相手の考えをただ受け止めること。

仕事とかで、本当はAという仕事をしてほしいのに、他の仕事を優先している後輩がいて、困っていたことがありました。

 

その友人曰く、

 

 

まずは、その後輩が自分の仕事を手伝ってくれていることに対して

「手伝ってくれてありがとう」と伝え、

次に、自分の状況を伝えます。

最後に、またその後輩に、「もしまだ時間があったらこっちをお願いしても大丈夫かな」など、相手の都合を思いやる言葉を伝えること。

 

 

このコミュニケーション、最初は結構うまくできなくてたいへんだったけど、

やはりコミュニケーションも訓練ですね。

少しづつできるようになりました。

 

 

自分にも相手にもストレスがない、対等なコミュニケーションには

まだまだ遠いけど、1つずつです。

 

 

最近「人それぞれ」って個性を尊重する時代なのでよく遣われるので、

ちょっと気になりブログに取り上げてみました。

 

 

余談ですが、個性といえば、

個性を尊重する=普通でいることはよくないこと

ではないとわたしは思う。

 

 

個性が強く言われるあまり、逆にそれが気になって、個性がない自分を責めてしまうのは、本末転倒だと思うから。

 

 

ちなみにわたしは超がつくほど普通だなーって。

そんな個性的でありたいって思ったときもあったけど、

そっちより、「個性的であるべき」って縛られていたほうがとっても苦しかった。

 

 

普通っていい意味で諦めたんですよね。

 

 

なんというか、諦めることって大事だなって。

 

 

 

執着して諦めない!ってゆうのは、ちょっと違って、

諦めなければならない中でも、自分だけの譲れないものがあって、

その自分だけの譲れないものだけがしっかりしていればいい。

 

 

いつも大事な部分だけがみえていれば、ズレがあったとしても

大きくはズレないのかなって最近思います。

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世の中に、じぶんの事をわかってくれる人が、

少しだけいてくれればいいなって思えるように、

徐々になっていけばいいなあと思います。

 

 

 

 

 

 

 

LGBTの人に言ってはいけない言葉。

わたしは、

カナダに住んでいたときに、

ゲイの方や、レズビアンと触れ合う機会があり、同性愛とか、性同一性障害には偏見はない方だと思います。




で、人間て、

どーんな人も、男、女、関係なく、

男性だけど、完全に120パーセント男性。

ということはなく、1パーセントでも、女性的な部分があるらしいです。



同じく、女性もある。

例えば、「ふざけんじゃねえよ」って

言葉を女性が使うと男性的な一面を感じませんか?こんな感じで。

男性脳とか女性脳の話ではありません。





で、これって、自由にいつでも

変更出来る権利がある訳ですよ。




自分が決めることで。

他人が決めることではありません。




で、時々、

性同一性障害なんだね?

じゃあ、男か女。どっちにするの?

わかった。君は男性だけど、女性になるなら、女性扱いするから、今後変えないでね」

的な事を、言う方がいるらしいです。




男性か女性か、今決めて、

今後一切変更するな。

と強要しているように、わたし個人には

聞こえます。




でも、私も、ずーっと

120パーセント女性でいるのは無理で、

たまには、胡座をかきたい。

たまには、腹が立ったら、ふざけんなー!!!って、叫びたい。

こういう男性ぽい部分、出したいし、

勝手に出てくるもんです。




人に固定されるもんでもない。

自由でいる権利がある。




だから、女性になりたかったら女性でいいし、男性になりたかったら、男性でいいのだ。




という考えが大切らしい。




なので、

いくら自分が混乱するからといって、

相手の自由を奪ったり、決めつけたり、強要を促すような発言は、言わないように

気をつけたいです。






勘違いしていた「マズローの欲求の階層説」

今日は、大学の心理学の先生の開く、

ワークショップに参加してきました。



参加のお約束で、

●人が話している最中に、自分が話をしない。

●なにを話していても、アドバイスはしない。

というものがあり、否定や評価がないので

すごい安心して深く話が

お互いに出来る場所でした( ´∀`)



ここで聞いたお話で、

勘違いしてる人がたくさんいるし、

わたし自身が何より知らなかったので、

忘れる前に書いておきます。




マズローは、ご存知でしょうか?


欲求階層説とは、心理学者のアブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向けて絶えず成長をしていく」という理論を唱えて、人間が持つ欲求を5つの階層に表したものです。

この理論では、人間誰しもが持っている欲求を5つの階層構造で解説しています。

https://jibun-compass.com/maslow

詳しくはこちら。↑



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※同じサイトから使わせていただきました。




実は、この、

「尊厳の欲求」部分は、つまり、

承認の欲求。なのだが、



実はこれは、こんな感じで、分けられる。

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承認の欲求というのは、

実は、他者から認められたい。というのと、

自分で自分を認めたい!!!という欲求の

2つに別れているのだ。



で、ピラミッドの頂点の

自己実現の欲求」は、

自己実現の欲求と、自己超越の欲求

2つに分かれる。



ちなみに、この頂点の部分は、

人類の1パーセントしかいないらしい。



多分、レオナルドダ・ヴィンチとか、アインシュタインとか。

成功者ということではないんじゃないかなぁと話を聞いていて思いました。




で、先生いわく、

実は、自己承認の欲求を満たしていることを、自己実現の欲求を満たしていると思って勘違いしている人が結構いるということ。




では、

自己実現」と「自己承認」の違いは何か??




それは、ひとことで言えば、

結果を求めるか、求めないか?

の違い。




自己実現の欲求は、

ただ学ぶこと、することが楽しい。

結果は求めない。




自己承認の欲求は、

自分に課題を課していき、結果を出すことを求めること。

(例えば、資格を取るという目標を自分に課すこと)




なので、自分で自分を認めるために、

何か「結果」を求めることは、

承認欲求に入るので、

欠乏欲求に分類されるのだ。




売り上げという結果を出したいや、

何かを成功させたい。は、

基本的欲求が満たされてる訳ではないらしい…




ピラミッドの頂点の自己超越の欲求というのは、



自分の人生のテーマに、

我を忘れて取り組んでいる状態のことで、

自分を越えた何かとつながっている人のことなのだそうだ。



この頂点の人たちは、

驚いたことに、神秘体験とか、至高体験

日常的に感じている人。

つまり、日常的に「最高」の体験をしている状態。多分、赤ちゃんて毎日が新しいものに満ちていて、うぉー!って感じじゃないですか。

あんな感覚を日常的に感じている人たちらしいです。




結果を出したい。は、

自分で自分を認めるための行動ということですね。




ちなみに、成長欲求の部分が真の意味で

実現している方は、

人類全体の1パーセントらしいです。




勉強になりましたーー!!!




セルフイメージよりも大切なこと。

セルフイメージが高いとか高くないとか以前こだわっていた自分が

すっごく恥ずかしいなと思った。

 

 

そもそもセルフイメージが高くなりたい!って思っている時点で、

セルフイメージがずっと低いです!!!

 

 

って公言してるのと一緒だし。

 

 

最近、もう結構セルフイメージ、低くて結構です。

って感じになってきた笑

 

低くても別にわたしの事をすきでいてくれる人はいるし、

その人たちを一生懸命増やす必要はない。

 

 

自然に集まってくるものだろうし、

そこに努力したい人がすればいいし、

とにかく自分には関係ないことなんだなーって最近思う。

 

 

投げやりになったみたいに見えてるんだろうなあ。

でも、そう思われても、結構どうでもいい笑

 

 

わたしの感情は私のものだし、別に誰に何と言われようが、

ふーん、あっそ。で?

って思う。

 

 

 

下山したとかしないとか、上がるとか上がらないとか、

興味ないし、

てゆうか、そもそも何を基準なんだろう。

下山の基準。誰か知ってたら教えてちょ。

 

 

 

人間落ちるときもあって当然だし、

どんなに自信がある人だって、

あきらめそうになったり、落ちることがあって当然だし。

 

 

ましてや「ずっと変わらないね」って

評価されてもほんとに余計なお世話である。

 

 

 

いい人ぶるのもしんどいし、

こうやって時々ゲスくなっていくけど、

これが本来のわたしなので、いま、超スッキリしている。

 

 

 

人のために何かすることも、

自分以外のことに今は正直時間割きたくないし、

とにかく、このネットの情報の多さから本気で離れないと、

インプット、アウトプットよりも何よりも、

 

 

誰かの考えや影響をうけることによって、

いいものを取り入れることと、影響を受けただけのことなのか

わからなくなる。

 

 

 

私個人は、

アドラーの7つの習慣よりも、あんま有名じゃないけど、

ロジャースの考えのほうが、

アドラーの強靭的な感じよりも、人間らしくて、とても好きだ。

kokoronotanken.jp

 

 

セルフイメージなんて変化する。

 

 

ありのままので「いい」「悪い」と白黒続けて、

心がそっちにとらわれ続けるあまり、

すっごくつらくなってしまうよりも、

 

 

自分はこういう考え方の癖があるし、

この考え方の癖と、ずっとこれからも付き合っていくんだ。

じぶんが感じている「劣等感」があることを認め、

付き合っていく覚悟を持つ方が何十倍も勇気がいるし、

セルフイメージうんぬんよりも、大事なことだと思う。

 

 

 

いつまでも劣等感から目を背けて自尊心を高くするのではなく、

劣等感をもって逃げているということを受け入れるだけでもかなり楽になる。

 

 

劣等感があって、逃げているからといって、

別に治す必要はないし、何か努力する必要もない。

 

 

きっと努力したくなったら何か考えるだろうし、

本気で何かを変えようと思ったときには、誰しも必ずじぶん自身で答えが出せる力を絶対に持っているから。

 

 

嫌われる勇気なんか持たなくてもね。

勝手にもつようになる。

 

 

劣等感を持っている自分を拒否し続けた結果、

劣等感を埋めるために、学び続けて、でも、ずっとずっと

足りない感をどこかで抱えながら、生きてきた。

 

 

正直、そのとき頑張っていた自分よりも、

今の自分のほうがずっと自分らしく自然。

 

 

昔のそんな自分が損したなあ・・・って思うし、

そうなってしまった事に対して、じぶんの弱さとかに情けないなとか、

正直、相手に対して怒りや、悲しみや、がっかりした。とかいう

感情もわく。

 

 

ただ、そこから学んだことは、

自分の心の底からお互いを尊重できるコミュニケーション能力を身につけたいなと思ったこと。

どこかで無意識に上下関係ができてしまった関係というのは、

上にたつ人はきっと、じぶんの意見を言いやすい環境だけど、

結局どこかで意見を曲げたり、劣等感を持ち続け、埋めるということは、

どうしても、上下関係に陥りやすいのだということがよくわかった。

 

 

遠回りはしたけど、身をもって学んだので、それでいいんだと自分を納得させるしかないし、そんだけ自分は何かにすがりたいくらい、助けてほしいってうまく言えなかったんだろう。

 

 

ただ1つ確信していえることは、ただただ本気でみんな自分の人生を生きているだけなんだろう。と。その中で違いがあっただけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

わたしは都会での消費・浪費に傾きがちな生活より、田舎で情報もあまりない場所で

伸びのび過ごしたい。それがわたしの夢。