わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

共感≠相手の気持ちを敏感に感じ取ること

カウンセリングを学んでいて、ちょっとできていると軽視していたのは、

『共感』に関する理解である。

 

 

共感というのは、同感すること、相手の気持ちを敏感に感じ取ることとは

異なる。ということだ。

 

 

ずっと『共感』の意味を勘違いしていたので、ここに書いておこうと思う。

 

 

 

わたしは、人に無視されたとき、とってもいやな気持ちになった経験がある。

例えば、Aさんも『無視されて嫌な気持ちになった』ことがあるとしよう。

そしてBさんも同じ経験があるとしよう。

 

 

で、今までわたしは、

AさんやBさんから、「無視されて嫌な気持ちになった」と話を聞いたとしたら、

「あーわかるわかる。それ私も経験あるからわかる。つらいよね。」

っていうような返しとか、

返答しなくても、心の中で、「つらいんだろうな」って『思って』いた。

あとは、『あーきっとあの子の場合は○○なことがあったから、こんな気持ちなんだろう』とかって思っていた。

 

 

けれども、実際は、

同じ経験をしても、その『嫌な気持ち』っていうのは、

AさんもBさんも、わたしも誰1人として同じ気持ちではない。ということ。

 

 

共感っていうのは、その1人1人の「ニュアンス」とか「感じ」とか「エッセンス」みたいなものを感じ取って、同じ位置でそこにたっていることなんだと思う。

 

 

 

今までわたしがやってきたものは、共感ではなく、

どちらかというと、同調とか共鳴っていう言葉のほうがしっくりくる。

 

 

 

こっちの共鳴とは、

「わたしは同じ経験をしたことがあるから、きっとあなたも同じような気持ちなんでしょう」という自分の判断の上に成り立っているものであるということ。

それは知らない間に「自分の下した判断」を相手に押し付けていることにつながる。

 

 

で、それを感じ取った相手は「わかってくれない」「押し付けてくる」と感じてしまう。

 

 

 

このジャッジみたいな自分の考えに無意識でいると、

自分の価値観でモノをみていることに気づかないから、

「自分の感じていることがあたかも真実だ」と思ってしまうんじゃないかなあ。と。


 

 

特にわたしは自分が繊細な方だと思うけど、

自分が繊細だからこそ、「わたしは繊細だからわかるよ」って思っている思い込みに

気づき、

どこか『わかっているよ』っていう気持ちも手放す必要がある。

 

 

 

だって『相手の現実』の中に、わたしはいないわけだし、全く関係ないのだから。

 

 

 

自分の価値観でみている部分があるなーと思ったらまずは脇におくこと。

 

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わたしの信頼する友人が話していたが、彼女はコーチングをしている。

いつも言っているなかで、

『わたしには共感力がないが、それでいいと思っている』と話していたが、

今思えば、彼女は共感力は抜群にあって、共鳴力がないのだ。

 

 

つまり、自分の価値観というものは、脇においているので、

彼女と話すときは、いつもコーチングにも関わらず、どこか誘導されない、

自分で前に進んでいるようなコーチングができるのだと思う。

 

 

共感ではなく、共鳴するから、

『一緒にいると相手の気持ちが伝わってきてつらい』となって、一緒にいることが

つらくなってしまったり、めんどくさくなってしまうのだろう。

 

 

 

いつも主役は自分ではなく、目の前にいる『本人自身』であることを

意識していれば、相手に対してもジャッジすることをやめられるのかもしれない。

 

 

いい意味で自分を捨てること。



相手と同じ位置にたって『とどまること。』



これが、本当の『共感』なんだなあと

学んだ。

 

 

 

そして同じ位置に立ち止まることってすっっごく難しい。

共鳴していたら、そこにはきっと留まれないから。

 



「相手と私は別」と割り切ってしまうと、そこには薄い壁ができてしまうため、

それは、『共感している』でなく、

共鳴しているから、割り切らないと相手との距離が保てないのだろう。




だからこそ、もっともっと自分自身と本気で向き合う必要がある。

 

 

とってもとっても難しいんだけど。

 

 

今日はとってもいい学びになった。

 

 

 

 

 

 

『自分が嫌い』って言った途端、楽になった。

先日、自分のことが嫌いって書いたけど、

それを公言したらとっても楽になった。

 

 

こんなこと、仲がいい人に言えばいいのかもしれないけど、

わたしは完璧主義で、ずっとずっと『いい人』だった。

それがやめれなかったし、うまくいかないと落ち込むし。

どこかいつも、自分でも気づかない間に、

自分の中に、『これはこう。』と枠を作ってしまってしんどかったけど、

実際は、自分の中に枠を作っていないと、

そこからはみ出ることの方が不安だったのだと思う。

 

 

 

いつもどこかで『幸せでいること=愛情もお金も体型も整っていてすべてがある状態』って思っていた。

でも、それが、どこかでそれが『幸せの条件』って思い込んでいる部分があったから、反発したり苦しかったのだと思う。

 

 

でも多分それは違って、そのために、

頑張ること=結果を出す=結果を出すために焦る。

となると、結局、結果に焦点があたってしまって、

今していることがつらくなってしまったり。

 

 

目の前の『食事をする』ということがストレスが大きすぎて、

楽しむものではなく、ストレスを解消するもの。になってきてしまったのだと思う。

 

 

けれどわたしは医療の世界にいていつも感じるのは、

自分の体っていうのは、誰1人例外なく、自分の体を守っているんですよね。

心がどうなろうとも、心臓は動こうとしてくれるし、

体の防御反応だって本当にじぶんの事を守ってくれている。

体は、『生きよう、生きよう』ってすごく健気に頑張っていてくれる。

 

 

 

だから、わたしの過食も、

体が素直になにかわたしを守ろうと頑張っていてくれているんだと思ったんです。

多分、本当にストレスだったんだろうな。

完璧主義が。

 

 

何かを『解消』したって、根本から『解決』しないと意味がないって思っていたし

うまくできないのは、現実から逃げているだけ。目をそらしているだけ。

できなければ、自分に甘いだけだ。

って、そう思っていた。

ほんとうに自分に厳しい。

 

 

そうやって、結局解決なんて、すっごく時間がかかるものだし、

問題にずっとずっと目を向けていれば苦しくなるに決まっている。

そんな頑張り続けていたら、心が苦しくなってもおかしくない。

 

 

いつも、知らない間に、今幸せか?

○、☓。で評価して、○だったらいいけど、☓ならば何か改善が必要だ・・・

って、それはきついきつい。

 

 

☓の自分を認めるとか認めないとか、○や☓をつけない。とかよりも、

そもそも、☓の自分だけでわたしは構成されているのではないってことで。

 

 

実際わたしはじぶんの体が好きじゃない。

でも、その体をすきじゃないって言える自分のことは好きだし、

見た目だけで私は構成されてなくて、あくまで見た目は、

わたしという要素の一部分だけなだけで。

これがすべてじゃない。

 

 

むしろ美味しそうに食事をするときの自分は好きだし、

それをみて目の前にいる人や、一緒に食事をしてくれる人が笑っているのを

みるのはとっても好き。

食べすぎちゃった!って言って、

好きな人と一緒に食事をする時間はわたしにとっては本当に幸せな時間なんです。

 

 

多分、そういうことなんだろうって思う。

 

 

嫌いな自分は好きにならなくてもいいし、目をそむけてもいいんじゃないかと

思う。好きにならない自分を無理やり好きになる必要もないし、

消す必要もないし、嫌いなら嫌い!で本当にそれでいいと思う。

嫌いだからって言って、わたしのコトを好きだった人が

離れていくこともあるかもしれないけれども、

それはそれで、悲しいよね。うん、寂しいしかなしい。

 

 

だけど、嫌いな自分を頑張って変えようとしていてもしていなくても、

きっと本当にわたしのことを好きな人は、どっちでも好きでいてくれるだろうし、

嫌いな自分を変えるのって、

きっと『誰か』からみての自分がいやなんだと思う。

 

 

わたしの体型の場合は、日本で太っている女の子って少ないし、

太っていることは恥ずかしいって思っているから。

だらしなく見えるし、そう評価されるから。

みんなと一緒がいい。って思ってた。

スタイルいい人って思われたいとか。

 

 

でもその、誰のためだかわからないような努力を続けていても、

多分、その『誰か』はそんなこと気にせず、自分の人生を楽しんでいるんだよね。

 

 

そう思ったら、自分は自分の大切って思えるひとと

楽しく過ごすだけでいいんじゃないかって。

 

 

 

だから、わたしは、嫌いな自分は嫌いなままでいい。

こうやって言える自分のほうが好きだから(^^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の体なんて大嫌い。

今日は長文なんでヒマな人だけみてください。


わたしは自分の体が嫌い。



大きい胸、太い足や二の腕、

ポコっと出たお腹。

鏡の前に立つのも嫌。



「自分なんて」って言うと良くないとか、

「そんなことないよ」って言われても、


嫌いなもんは嫌い。




だし、誰かの主観で、

そんな風に、「いい」「良くない」と

判断されることが結構苦痛。



今までネガティブな思い込みを書き換えるワークをしてみたりしたけど、



正直、すればするほど、

自分のネガティブな気持ちをなかったことにしているみたいだし、

それ自体が、自分自身を否定している気持ちになる。




男性も苦手で、昔からナンパされても

嫌悪感すら出てきて、

とにかく男性が嫌い。



男性が嫌いな理由も、

人にはわからないほどの、自分の体のコンプレックスからくるもの。



なんできれいになりたいか。って

ダイエットなんて何回もしてきた。

ただ、そのうちに、1度も

「自分のために」するダイエットなんて

なかった。



きれいになりたい理由は、

男性にモテたいため。とか、

きれいになって、だれかから綺麗と言われたいから。とか。




ましてや、周りも「女性は美しくあるべき」って考え方の女性も多くて自分もそうでいなきゃ恥ずかしいって思ってた。




つまり、『自分のために』綺麗になりたいなんて考えたことがないかもしれない。




綺麗になるには、努力が必要。



月数回エステ行ったり、筋トレしたり、

運動したり、食事制限。


でもさ、

どんな人でも、人間の個体差、時間差はあれど、それを続けていれば、痩せるに決まっている。




でも、わたしの欲しい自分の姿は、

『痩せているから』

『綺麗にしているから』っていう自分じゃ

なくて、



『太っていても、痩せていても、

自分の事が好きって言える自分』に

なりたい。




何か食事とか我慢したり、

運動したりして痩せる事はできたけど、

リバウンドするのは、

『本人が甘いから』って言われるけど、

でも、そんなことじゃなくて、

むしろ頑張っても頑張っても、終わりのないランニングみたいなんだよ、わたしにとってのダイエットって。




わたし自身の場合、

周りの人に自分の体が痩せているか、太ってるか、綺麗か?の、評価に晒されて、

気にしているから。




レコーディングダイエットも、

悪い部分を見つめること。で、

修正する。




だけど、悪い部分ばかりに目が行き、

自己否定ばかりして、

頑張ってもうまく行かない。



こんな苦痛で辛いことなんてないわ。



悪い部分をみつめ、修正して、

頑張ってもうまくいかない。

だれかに評価される。

学生が終わって、大人になっても誰かに評価されるなんて。

ほんとに終わりのないマラソンみたい。




今までは、

男性不信も、過去のことから学ぼう。

とか言われたけどさ。




無理矢理自分の気持ちを

押し込めて、書き換えて、学んでも、

それ自体が自己否定。




わたしのカラダのコンプレックスは、

男性からの評価や、男性のイタズラから、

きたもの。




でもね、今まで付き合ってきた彼氏の中には

わたしが太っても痩せてても、

わたしはわたしだから体型なんて関係ない。



って言ってくれる彼氏が数人いて、

そこにほんとに救われた。




自分の体は大嫌いだけど、

そんな風に、

大嫌いって思うのは良くないって思えば思うほど、自己否定になるので、

ダイエットはもうしません。




カロリーや食べるものとか気にして

大切な友達との食事を心から楽しめない

自分でいる方がますます嫌いになってしまう。





今までは、できない現実をみて、

修正、改善してきてうまく行ったけど、

人生は仕事じゃないんだし、

むしろ、今までうまくいっていたやり方自体を捨ててみようと思う。





あとは、自分の体が嫌いって

思っている自分をもっと受け入れたい。




嫌いなもんは嫌いなんだよね。

でもその嫌いな部分だけが『わたし自身』

ではないから。




まだまだ自分を受け入れるって

すごくすごくわたしにとっては難しいけど、

難しいって言える自分は、

ちょっと好きかも笑


ありのままってムズい・・

カウンセラーの勉強もいよいよ佳境に入ってきました。

 

 

うーん。やっぱり、こういう人と触れ合う業種ってガチで

『ありのままの自分』でいられるようになるための訓練なんだろうなあと

ガチで思う。

 

 

というのも、カウンセリングの勉強をすすめるにつれ、

自分の音声や声のトーンをがっつり聴く機会がありまして。

 

 

以前は、自分の声を聴くとか恥ずかしくて何回も聴くことは

なかったよ。

でも今は勉強のためだし、自分をもっと知りたいって思って

聴く機会が増えたら恥ずかしさはなくなった。

 

 

んで、自分の癖ってすごい本当に無意識なんだねー。

 

 

わたしはよく『なんか・・』って使っていたし、

話が堂々めぐりになったり。

 

 

あとは、どこか『相手はこう考えているんだろう』と推測するあまり、

断定的な言い方で言葉を返していたり。

 

 

いままで『威圧的な部分がある』ということは理解していたけれども、

なんでだろう・・・ってわからなかった。

 

 

でも、きっと、わたしの頭の中の推測の部分で相手を判断していたんだよね。

だからどこか『導こう』とするような話し方だったり、

相手の人間性をも決めつけるような言い方だったんだ。

 

 

じゃあかといって、どうしたら相手とフラットにいられるかは

正直わからない。今んとこ。

 

 

どこかで、こういう自分はよくない。って感じている部分もあるんだ。

そう、真面目だから、今の自分よりもっとよくなりたいって思ってる。

 

 

これって今の自分を否定し続けることになるんだよね。

 

 

どっちもモヤっとするの。

よくなりたいって思うのも、モヤっとするし、

今の自分を否定し続けることになる。っていう言葉にもモヤっとする。

 

 

 

なんなんだろうなあ・・成長過程だと思えばいいんだろうけど、

きっと自分に期待している部分もあるからなんだろう。

 

 

期待しているからこそ、なんでできないんだ!もっとできるはず!ってね。

自分や他人への期待を一切すてることができたらとても楽なんだろうけど。

 

 

どんだけグーグル先生に聞いて他人のブログや本を読み漁っても

答えなんて書いてないし。

 

 

唯一いつも自分の心の状態がわかるのは、音楽を聞く事だと思う。

 

とっても悲しくてやりきれないとき。

逆に自分らしくいれないつらさ。

なんとも言葉にならない切なさ。とか、

心が反応する曲が違う。

 

 

この曲を聴いて泣いていたのに、今は全く泣かないものとかもある。

 

音楽ってすごくストレートだからわたしはいつも聴いてしまう。

 

あ、あとは夢。かな。

怖い夢みるときは不安定だなーとかね。

 

 

今日はドラマ『グッド・ドクター』をみたからかなりデトックスしたわ。

やっぱり小児に携わる仕事は人間の深い部分に触れ合うことができる仕事だと

思う。早くまた戻りたいって強く思った。

 

そのためにも今ここで踏ん張らばきゃね。

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幸せな夫婦たちから学んだこと。

昨日は、高校の同級生の結婚式だった。


30代後半に出た同級生の結婚式は、

とても温かい結婚式だった。




結婚式に来た友人の中に、

ほんとに絵に描いたような夫婦になり

家族になり、

高校時代から変わらないパートナーシップを

築いている友人がいる。




子どもを生んでも、

彼女たちはお互いを名前で呼びあい、

周りが温かい気持ちになるくらい

温かい家族。




それは、付き合っている当時から

色々ぶつかり、自分のやりたいことをしたい。と素直になり、

それをお互いに応援したり。

つらい時でも支えあって相手を尊重する。

そんな人として尊重しあえる人間関係を

ずっとずっと続けているからだと思う。




結婚式に出て感じたのは、




結婚式は、

とてもその人たちの在り方が出るもの。

ということ。



人は多いが、どこか見栄を張っている式とか

もあった。




ほんとに素敵な式というのは、

人が少なくとも、心からお祝いして

くれる人がその場にどれだけいるか?

だと思った。




そして、わたし自身は、

高校時代まで親友といえる友人が

いなかったと思う。




素敵な友人夫婦たちや、

親友と呼べる人たちと何が違うのか?




それはきっと、わたしが気を遣いすぎて

ぶつかりあうことを恐れていたんだと

思う。




彼女たちの今があるのは、

見えないところでお互いを尊重して

本音を伝えているところだ。




この尊重する=気を遣うことだと

わたしは勘違いしていた。




尊重するとは、お互いの違いを

ただ受け入れることなんだなと思う。

受け入れて我慢することではなく、

受け入れた上で、自分はどう思っているかを

伝えること。




ただそれだけなんだな。と。








繊細な人はわかるかもしれないが、

相手と話すと、

「あ、この人多分こんな人なんだろうな」

と思うときがある。




そうすると、どこかその相手を

すごく無意識に「●●な人」と

決め付けてしまう部分がある。




すると、その人に対して、

「●●」の部分が特に目立って見えてしまう。



例えば、この人は、

「優しい人」と感じたら、

優しい部分を、強く感じることになる。




ただ、この部分から外れると、

すごくガッカリすることもある。

そのガッカリの大部分は、

「自分の抱いていたイメージと違ったこと」に対する、ガッカリな部分。


「自分と似たような感覚でいられる人と

思っていたのに」と、

自分を否定されたような期待を裏切られたような感覚になる部分。



こんな感じになる。



で、繊細な人というのは共通して

自分が傷ついてきた人が多く、

人に対してビビリな部分がある。




なので、自分の見立てを大切にしている部分があり、なぜかその自分の見立てを

「当たっている」と感じることが多い。




人はわからないことに対しては不安になり、

その「わからないもの」が「わかるもの」になることで、安心感を得ようとするらしい。




つまり、初めて会う人に対し、

この人は大丈夫か?と不安があるから、

相手をまずは「●●な人」と決め付けて安心するのだ。



ただそれだけなのだ。




よく考えたら、

わたし自身、仕事中の自分。友だちといる時の自分。恋人の前での自分。家族の前での自分。色んな自分がいることが当たり前だ。





なので、相手を決め付けるのは、

完全なる自分の都合。

つまり、相手の都合の良い部分だけを

私はみているだけということにもなる。




傷ついた自分を守る余り、

結局、相手を自分の都合の良い部分しか

みていない人間関係を築いていたのかも

しれない。




気を遣う人といると疲れるのは、

多分、この「決め付け」の部分が

相手に伝わるからだ。




気を遣われた相手は、「あ、この人傷つきやすい人なんだろうな。」と感じ

言葉を慎重に選んだり、逆に気を遣われている。

お互い超無意識に。だけど。




わたしの場合は、

まさにこれで、自分が傷つくのを恐れる余り、安心感を得ようと、相手がこういう人と

決めつけるから、相手も居心地が悪かったんだろうと。





素敵な結婚式から、

また素敵なことに気づくことができ

よかった^ ^



そして、こんな友人が周りにいることを

誇りに思う。


譲れないもの

実は4月頃よりカウンセリングの勉強をしています。

 

受からなかったらどうしようと思い、数人の友人にしか話していなかったのですが、

まー受からなかったら、次回また受ければいいか。という想いでいれるようになった

ので、ブログに書いてみようと思って書いてます。

 

 

そもそもわたしがカウンセリングの勉強をしたいと思ったのは、

わたし自身がすっごくコミュニケーションで苦労していて、

さらに自己中心的で人に気持ちがわからない人だからです。

 

 

看護師をやっているのにわかんないのかよ。

って言われそうですが、そうです。

 

 

以前のわたしは、全くその遠りで、

じぶんがこうしたい。とか

ああしてほしい。って気持ちがあると、

自分以外の人間も、わたしと同じように思っているはず!とか

思っていたし、

 

わたしがこんなに苦労してるんだから、あなたも苦労しなさいよ!

って押し付ける人間でもあった。

 

 

誰かに親切にして「あげたい」という上から目線。

正しい道へ導きたい。という、余計なおせっかい。

察してほしい。という傲慢さ。

を兼ね揃えた人間でした。

 

 

 

看護師という仕事を通して、

仕事は結構完璧主義だと言われるし自分でもそう思います。

 

 

ただ、人の体を扱う仕事に対しては、

知識うんぬんよりももちろんですが、それ以上に

「真剣に1人1人に向き合いたい」という気持ちが強い。

 

 

そこの気持ちの部分は、いい加減に扱っていいものじゃないので。

 

 

歳を重ねていくごとに、

患者さんだけでなく、患者さんを取り巻く家族の想いや、人生や命の延命などの

想像を超すようなその人の人生に関わる決断の場に自分が居合わせることの

重さというものを、ますます感じるようになりました。

 

 

生きるか死ぬか。

究極の大きな選択・決断を迫られる患者さんもしくは、その家族。

逆にコトの重大さに気づいていない人もいます。

受け入れれない現実を、短期間で急に突きつけれれることへの悲しみや怒りや、

絶望感などの複雑な心情にある人たちにとって、何が信頼できるのか。

 

 

その中の1つに、いち医療従事者としての「人としての在り方」と

いうものが、すごくすごく信頼というものに大きく影響するということが

本当によく身にしみています。

 

 

 

だからこそ、体のことだけでなく、心のことも真剣に学びたいと

思いカウンセラーの資格を取りたいと思いました。

これは、わたし自身が、仕事に対し、「割り切って」行うものではなく

「人として仕事に向き合いたい」という気持ちからです。

 

 

 

もちろん至らない点は山ほどある。

けど、周りからみて、この気持ちの部分が『完璧主義』とみられることや

厳しさと言われるものでもあります。

 

 

でも、自分のほんとうに大切にしたいもの。

つまり『人として仕事に向き合っていくこと』は、

わたし自身の譲れない部分であり誇りでもあります。

そして生きていく上でこの部分はどれだけ自分が迷ったり、違う方向に行っても

変わらない、道標みたいなものだと思っています。

 

 

 

自分が完璧じゃないからこそ、

もっともっとよりよく何かを提供するために自己研鑽するのは当たり前で、

厳しいって思うかもしれないけど、

わたし自身は正直それを楽しんでる部分もあります。

 

 

 

綺麗事ばっかじゃないけど、100回うまくいかなかったとしても、

年間にたった1人の患者さんから『ありがとう』と心のこもった一言が

あったときにはそれだけで結構嬉しさ満タンな気持ちになるもんです。

 

 

それにその嬉しさや安心感とか、病気を通して、

触れることができる人の気持ちというものは、

つらいこともあるけれども、本当に純粋な部分を学ぶ場所でも

あって、今のわたしはやっぱり1人1人の出会った人たちのおかげで

この価値観が作られているのだなとも感じます。

 

 

 

カウンセリングを学んでいっても、

過信しないよう、かといって、自身を虐げることもなく

これからも学びつづけて自己成長したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

ダイエットと自己啓発。

去年より体重がなんと8kgも増えてしまったわたし。

最近、食事手帳をつけ始めました。

文字に起こせば、自分のできている部分/できていない部分が、

客観的に目に見えます。

 

 

でも、書いても客観視できていない・・笑

明らかに・・・笑

 

 

で、気づいた。これ、自己啓発と同じやん!!!!

 

 

 

以前は、わたし、定期的に自己啓発に投資していた過去があります。

今は、まったく自己啓発には投資していません。

 

正直、今思うとダイエットに似ている。

 

 

自己啓発に投資していたとき、

わたし、どっかで、

自分がなんとなーーーく不安で、すっごく環境や人に左右されていたんですよね。

環境はとても大事で、一緒にいる人でとても考え方が変わる。

 

 

でも、正直自己啓発に費やしていた時って、

漠然と今の自分がなんとなーーーく嫌だし、

かといって、何が嫌なのかもわからないし、

ずっと悶々とするし・・・・

何がしたいかわからない。自分探しみたいな。

 

 

後退したくないから、何かやっているすごい人たちや

向上心がある人たちと一緒にいないと、

自分がダメになるって思ってた。

 

だから、いつも少しづつそこにお金かけてた。

 

 

でも、いつも漠然としていて、

はっきりと、もうこれが嫌!!!とか、絶対にこんなふうになりたい!!!

とかってなかった。つねに。

 

 

自己啓発にお金かけて、同じような悩んでいる仲間といて、

悩んでいる自分を相手に投影して、

あーみんなもわたしと一緒で悩んでるんだ。と、

どこか安心感を得ていたのかも。

 

 

 

わたしがダイエットで何回もリバウンドしたり、

いろんなジムとかに行ったりするのも、

ノートに書いても、よくわからないのも、

ぜーーーーーーーんぶ、

 

 

なりたくない自分。つまり、この場合「絶対に痩せている自分がいい」という

強い決意はないし、

逆に、なりたい体型もそこまで強くこうなりたい!!!とかないし

2度と戻りたくない!!!っていう気持ちないもん。少なくとも今は。

 

こんなわたしが、痩せると思う?痩せないよ、絶対。

本気で痩せようと思っていないんだから。

 

 

ジムやダイエットをしていることだけで、とりあえず意識むけているだけで

安心感を得ているから、痩せない。

 

ただ、それだけである。

 

 

本当はぶっちゃけ太っているって認めたくないし、

自分はまだまだ普通のサイズの服もいけるし。

 

 

とか思っている。

 

 

だから痩せないだけ。

ただそれだけ。

 

 

 

自己啓発も全く同じだ。

やめたのは、わたしは自己啓発に限らず、

何かに依存したり孤独で不安になっている自分が本気でヤバい!!!!

こんなの絶対にいや!!!!

って心の底から思ったから。

今でも2度とその時の自分には戻りたくないって思っている。

だから、一切自己啓発には興味がなくなった。

 

ダイエットの体型キープも同じだと思う。

 

私は以前の自分の心の状態の戻りたくない。

だから、そのために、今の自分をどう良くしていくか。しか考えていない。

 

 

体型維持できる人もそうじゃないのかな。

以前の太った自分には絶対にもどりたくないとか、

もっときれいになりたい!とか、仕事で絶対にスタイルキープは必須!!とか。

そういう明確だからこそ、維持ができるのだと思う。

 

 

 

今のわたしは、

今では自分のことは好きだ!!!って心からまだ言えるわけじゃないけど、

少なくとも、将来1人だったらどうしよう・・・とか

やりたいことがわからない・・・とか、

1人で寂しくて仕方ない・・・とか、

孤独で怖い、さみしい・・・とか

こういうことは、いっっさいなくなりました。悩まなくなった。

 

 

自分のことがわかってくれる友人が数人いればいいし、

与える・与えない。とかで気にすることもない。

別に好きな人たちの喜ぶ顔がみたくて、プレゼントしたくなったらする。

ただそれだけ。

友だちとは気軽に割り勘で食事をし、お金を払う払わないとか悩んだりすることもない。

利害関係が発生する人たちとは、わたしはいないことを決めたから。

 

 

利害関係のない関係が、とても心地がいいし、

お金に以前は困っていたりしたけども、今はお金も溜まってきている。

自分の仕事は大好きで誇りを持っている。その中で働き方は悩んだりはするけど

わたしからこの仕事をとったら何も残らない。っていうくらい仕事には真摯に向き合おうとしている自分はとても好きだし、そんな自分を誇りに思う。

 

 

 

ってことで、体型の現実みろよ、わたしーーーーーー!!!!

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