わたしと、私。

日常生活の中で気づいたことを書いています。

この人なら理解してくれそう。と思える人に。

自分自身が、悲しいときとか、つらいときに

ふと「話を聴いてもらいたい」と

思える人が何人思い浮かぶだろうか。

 

 

わたしは2人くらい。

 

 

わたしの話をいつも全肯定してくれて夜中にいつも電話がつながるAちゃん。

いつも自分の経験や主観を排除して、わたしの立場になってくれるBちゃん。

 

 

いつも3人で月1くらいで食事をする。

食事中はジャニーズの話とかそんなんだけどね笑

 

 

2人に共通しているのは、

いつもポジティブとかそういうのではなく、

 

 

人の話を自分の主観を通してみないこと。

 

だと思う。

 

 

人の話を聞きながら、

「わたしは○○に感じているが、あなたはそうなんだね」と

フラットに人の話が聴ける友人たちである。

 

 

 

わたしはどうしても自分の主観を通して物事をみてしまうので、

彼女たちのようになりたいなーと思っているけど、

いい意味で、自分を捨てないとできないことなので、

彼女たちの人間性はいつもすばらしいなと思う。

 

 

自分を知ってほしいという欲もなく、

ただ話を聴ける友人はわたしにとっては本当にありがたい存在である。

 

 

 

じぶんもそうなっていきたいなと思う。

 

 

 

わたしは、人に頼る。ということの本質が、あまりよくわからないのだけれど、

大事な話をしたい。と頼りたくなる友人というのは、

ちょっと頼ることを教えてくれる存在でもある。

 

 

どうしても、人のことはよくわかるような気がしてしまうので、

「なんであの人はできないんだろう」

「わたしはこうしてきたのに」

「いい加減現実みようよ」

 

 

なんて言われると、思われると、

ああもう「この人には大事な話はしないでおこう」と思う。

 

 

実際友人から言われたことがあるのが、

「今までのりなさんはずっと、自分が頑張ってきたことや頑張っていることに対して

相手が頑張っていないと、「なんで○○しないの?」と言っていたけど、

もしそのままなら、わたしは友達はもう続けられないなと思った。」

 

 

 

と話されたことがある。

 

 

これはすっごくよくわかる。

 

 

頑張っているのは、「誰だって」頑張っているんだよね。

そして、「誰だって」自分を否定なんてしたくない。悩みたくない。

って思っているんじゃないかな。とわたしは思っている。

 

 

 

そこに、「できている」「自分を否定している」「自己否定はよくない」「頑張っていないのはよくない」など、

ジャッジを下しているのは、まぎれもない話相手であった自分自身だったのだとおもう。

 

 

今でもそんな部分はある。

でも、苦しんでいようとそうでなかろうと、

現実逃避していようとそうでなかろうと、

ジャッジしている限りは、

相手を理解することは到底遠い話なのだなとわたしは感じている。

 

 

だからこそ、自分が他人に対して無意識につけているクセに気づいて

意識していくことが大事なんだなって。

 

 

わたしは、

「この人ならなんでも知ってそう。教えてくれそう。」って人ではなく、

「この人なら安心して話せそう」と思われる人になっていきたいなあ。

 

 

 

今感じている自分のつらさとか弱さとは嫌だなって感じている部分は、

自分の経験としてとても大切だけど、誰1人感じ方は違うということ。

 

 

そして、誰かに「わかってほしい」と思うから、

傷ついたりするんだろうけど、

もうそろそろ、誰も自分の気持ちをわかってくれる人なんて1人もいない。と

諦めないとね。

 

 

諦めるってすごく大事だ。

 

真面目過ぎるわたしはとても諦めることは苦手だけど

少しずつあきらめていきたいな。